(1)

高原の山間を走る路線バスの停留所から続く、緩やかな傾斜のついた登山道を歩き始めてから、
もうどれくらい経ったのだろう。太陽はとうの昔に南天に到達し、地上に遍く光と熱をもたらしてくれている。
それは山道の両脇に茂る木々の葉を通しても相当の暑さとなって、そこを歩いている2人の少女から
容赦なく体力を奪っていった。

後ろを歩いていた少女は疲れきった表情でもう観念したかのように、体を折り両手を膝について立ち止まった。
体を屈めた勢いで麦藁帽子の下から伸びた長い黒髪が汗で肌にへばりつく。

「ねぇ、ハルカ〜。まだなの?その叔父さんの別荘ってのは?」

そして歩き始めてからもう何度目になるかわからない質問を、前を歩く少女に投げかけた。

「おかしいなぁ……前来たときはこんなに歩いたはずじゃないんだけど……」

ハルカと呼ばれた少女は、後ろの少女が立ち止まったことに気づいて自分も歩を止める。そして後方を振り返ると、
数十歩分の距離を隔てた所に、肩で息をしている親友が見えた。

「アヤったら、だらしないなぁ〜。いっつも図書館で本ばっか読んでるからダゾ!」

そしてあきれた表情でアヤを軽くたしなめた。

「そんなこと言っても〜。もうかれこれ1時間は歩いてるよ?」

そう言いいながらアヤは腕時計の文字盤を指差してハルカに反論する。

「おっかしいなぁ〜……」

ハルカはそんなアヤの反論を無視するかのごとく、手にした地図に目をやって首をかしげていた。時計を見せられるまでも無く、それぐらいの時間が経っていることぐらい彼女も薄々感じていた。





ハルカとアヤは首都圏の高校に通う、同級生で同じクラスのいわゆる「親友」というやつだった。
この夏休み、ハルカが中部地方N県の高原にある叔父の別荘に招待され、それにアヤを誘ったのだった。


「大体さ、その「前来た」って何年前なのよ〜」

立ち止まることで少し体力を回復したのか、アヤがハルカに近づいてきて質問した。

「え〜と……に、2,3年前……かな?」

地図を見ていた顔を上げ、アヤの質問に答えるハルカ。
しかしその言葉は明らかにしどろもどろだし、何よりアヤから目をそらしてあさっての方向を見ている。

その様子をアヤは何も言わずに、ただじっとハルカの顔を見つめ続けている。
その視線には、真意を問いただそうとする人間のそれ以外に、わずかばかりの恨みのようなものも混じっている。
しばしの沈黙。ハルカの顔に暑さからくる以外の汗が流れた。

「あ〜〜〜、ハイハイ!ホントは10年以上前のコトです!」

アヤの視線に耐え切れなくなり、ハルカはとうとう白状してしまった。

「ぶっちゃけ迷ってしまいました!ど〜もスイマセン!」

そして開き直ったように、物凄い勢いで上半身を折り曲げアヤに謝罪した。

「も〜ハルカったら……ホント嘘がつけない性格なんだから……」

今度はアヤがハルカをたしなめる番だった。

「ゴメ〜ン……」

ハルカは下を向いたまま、先ほどまでとは打って変わった意気消沈した声で再度謝った。
アヤはそんなハルカを見ながら、半ば諦めた様子で深いため息をついた。

「……で、どうすんのこれから?」

「う〜ん……」

ハルカは体を起こしたが、その表情は途方に暮れている。それはアヤも同じだった。

「と、とりあえず……もう少し歩いてみない?もしかしたら他に別荘があるかもしれないしさぁ……
 もしあったらそこで道聞けばいいんだし」

「そううまくいくかなぁ……」

何とか場を繕おうとしたハルカの提案だったが、アヤはあまり乗り気ではないようだ。

「もうどうしようもなくなったら、そん時はそん時で今来た道引き返そう。ね、ね、それでいいでしょ?」

疲れを顔にあらわにしたアヤを無視してハルカは続けた。

「ウン、そうしようそうしましょう。そうと決まればレッツゴー♪」

変な節までつけて自分の言葉に一人納得し、行動を始めたハルカには何を言っても無駄だということを、
アヤをはじめとして彼女の周りにいる人間は普段から嫌というほど思い知らされていた。

「はぁ〜っ……」

アヤは再び深いため息をつくと、カラ元気を振り回している友人を追いかけるようにしてゆっくりと歩き始めた。
南天にあった太陽はわずかに傾き、快晴だった空には雲が現れ始めていた。
その時もし、彼女たちが自分を取り巻く環境の微かな変化を感じ取り、さらに引き返す勇気を
持ち合わせていたならば、これから先の物語は無かったかもしれない。






「おっかしいなぁ〜、ここも留守か〜」

何度ノックしても反応の無いドアを前に、ハルカはぼやいた。

幸いにも、程なくして谷あいに何軒かの別荘らしい建物が近接して建っている場所を見つけることができた。
だが不思議なことに、夏のレジャーシーズン真っ盛りだというのにどの別荘にも人の気配が無かった。

「ふぅ〜」

深いため息をつきながら扉の前の低い階段を降りた時、ハルカは初めて周囲の変化に気づいた。

「ねぇ、アヤー?なんか霧が出てきたわね。誰もいないみたいだし、そろそろ戻る?」

いつの間にか辺りには薄く霧が立ち込め始めていた。それは、ただでさえ道に迷い、
あるかどうかもわからない他人の別荘だけを頼りにしていたハルカの不安をよりいっそう高めることになった。
強引に先に進むことを決めた手前、自分の方から引き返すことを言い出すのは気が引けた。
そこで引き返すきっかけとしての同意を求めるため、ハルカは別の別荘を訪ねているはずの
アヤの姿を探して辺りを見回した。

「……アヤ……?」

2軒向こうの別荘の角からアヤが姿を現したが、その様子がどことなくおかしい。
うつむいたまま黙ってこちらへ歩いてくるのは、慣れない山歩きに疲れているせいだと思った。
しかし、呼びかけたハルカの声がまるで耳に届いてないかのように、ゆっくりとこちらへ歩いてくるのだ。
もしかして声が小さくて聞こえなかったのだろうか。
そう思ったハルカは、あと数歩の距離まで間合いを詰めたアヤに、再度声を掛けた。

「ねぇ、今のうちに引き返さな……」

しかし、そこまで言いかけたハルカの横をまるで彼女の姿が見えてないかのように、
相変わらずうつむいたままのアヤが通り過ぎていった。
ハルカはそんなアヤの態度に
しばらくあっけにとられていたが、彼女がハルカの呼びかけを完全に無視して
別荘地の外れにある茂みの中へ続く細道へと入っていこうとすると、急いで後を追いかけた。

「ちょ、ちょっと待ってよ、アヤ〜」

最初は、ハルカが道に迷ったのを黙っていたことへの仕返しとして、ハルカの声を無視しているのだと思った。
少し歩いたところでハルカが降参するのを見計らって、「じゃぁ帰ろっか?」と笑って
振り返ってくれるだろうと予想していた。
だがそんなハルカの予想に反し、アヤはその歩みを止めなかった。
アヤに追いつこうと、ハルカの足取りは自然とペースを上げていく。
だが、不思議なことにどんなに急いでもハルカはアヤに追いつくことができなかった。
それは霧によって歪められた距離感だけでは説明のつかない、奇妙な現象だった。
さらに濃くなっていく霧のカーテンの向こうに、アヤの背負ったブルーのリュックの影をとらえるのが精一杯だ。

霧と汗が混じり、不快な感触をハルカの肌にもたらした。
それは何かが粘つくような感触だったが、アヤに追いつくことで頭がいっぱいのハルカには
それに気を留める余裕はなかった。
どれくらいの距離を追いかけただろうか。
深い霧は距離感・方向感だけでなく時間の感覚までも狂わせてしまう。
ハルカは自分の脚がいつの間にか小走り程度の速さで動いていることに気がつき、
走りながら酸素を補給するために大きく息を吸い込んだ。

(ん?なんか……甘い?花の匂い?)

その瞬間軽い眩暈のようなものを覚えたが、空気の薄い高地で急に走り出したせいだと解釈し、
ペースは落としながらも相変わらず先を行く親友を追いかける脚は止めなかった。

やがて薄暗い茂みが途切れたところで前を行くアヤが突然立ち止まった。
息を切らせながらもようやく彼女に追いついたハルカが、アヤの肩に手を掛ける。

「も〜うアヤったら……」

その瞬間アヤが素っ頓狂な声を上げ、ハルカもそれにつられる。

「キャッ!」「うわっ!」

アヤが後ろを振り返ると、ハルカが心臓の辺りを押さえて後ずさっている。

「ど、どうしたの?ハルカ……?」

その質問に対し、ハルカは怪訝な顔をもって答えた。

「ど、どうしたって……?こっちが聞きたいわよ。アヤったらどんどん先に行っちゃうんだもん……
 いくら声掛けても待ってくれないし……」

ハルカの答えに、今度はアヤが不思議そうな顔をした。

「え?それって……」

そう言いながら辺りを見回したアヤは、さらに多くの?マークを頭の周りに浮かべることになる。

「え?え?え?……ここ、どこ?」

「どこって……アヤが勝手に先々歩いていったんじゃないのよ……」

「えーーーーーっ!?」

アヤの叫び声が辺りに木霊し、その声に驚いた鳥が木々の間から飛び立つ。

「そんなぁ……全然覚えてないよぉ……」

アヤが心細い声で言う。

「え?覚えて……ない?……それって、どういうこと?」

「うん。……なんかね、3軒目の別荘にも誰もいなくて……そしたら、霧が出てきたから
 ハルカに声掛けようとしたのよ。『そろそろ引き返そう』って……」

ハルカは黙ってゆっくりと頷く。

「その前にちょっと深呼吸しようとして息吸い込んだ途端、何か急に頭がポーっとしちゃって……
 そっから先は全然覚えてないのよ……」

「え?」

ハルカの頭に一際大きな疑問符が浮かんだ後、やがて1つの結論に至る。

「それじゃぁ何?……『無意識のまま歩いてた』……ってこと?」

「……かも……」

通常では考えられないその結論に、アヤがボツリと同意する。

「えーーーーーっ!」

今度はハルカの叫び声が辺りの空気を震わせる。

「どーすんのよっ!『無意識で歩いてきた』で道に迷っちゃうなんて洒落になんないわよっ!」

その言葉にアヤがむっとした表情を浮かべる。

「何言ってんのよ。元はといえば……元はといえば、ハルカが道に迷ったからじゃないの!」

「……ギクリ……!」

図星をつかれ、大げさな擬音を口にしたまま言葉につまるハルカ。
そのままアヤに睨みつけられ思わず目をそらしてしまう。

だが、幸運なことに目をそらした先に一軒の白亜の建物が映った。

「あ!あれ見て、アヤ!」

そしてアヤもハルカが指差した先に目を向けると、ごく一般的な2階建ての別荘らしき建物があった。

「で、でも人がいるかどうかわかんないよ……」

「そんなの行ってみなくちゃわかんないでしょ。行ってみよ!」

言うが早いかハルカはその別荘の方へ歩き出していた。アヤもそれを追いかけて足を踏み出した。
そんな2人を別荘の2階のカーテンの奥から冷たい視線が見つめていたが、
彼女達はまだその存在に気づくはずもなかったのだった。

「フフ……ようやく獲物がかかったようね……早速おもてなしの準備をしましょう……」





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