()

「ごめんくださ〜い……」

ハルカが挨拶とともにドアをノックすると、少し間があってから金属が擦れ合う音がして内側から扉が開けられた。

「はい……どなたかしら?」

その声とともに現れたのは、見た目20代後半と思われる、軽くウェーブのかかった長い髪の女性だった。
身につけている黒いワンピースドレスと対照的な白い肌、同じく白い顔に赤というよりは
紫に近い口紅がくっきりと浮かび上がり、やけに目立つコントラストを形成している。

「あら、可愛いお客さまだこと……何か用かしら?」

その女性は穏やかな視線でハルカとアヤをちらりと見ると、丁寧な口調で質問した。

「あ、あの〜、私たち知り合いの別荘に行こうとして道に迷っちゃって……それで、道など
 教えていただけたらなぁ〜、って思ったんですけど……」

ハルカが用件を手短にまとめて説明すると、女性はちょっと考え事をするように腕を組んで宙を仰いだが、
すぐに申し訳なさそうな声で言った。

「御免なさいね。私、この辺のことあまりよく知らないの……」

その答えを聞いたハルカは激しく落胆したが、すぐに次の質問をした。

「そうですか……じゃあ、ここから引き返そうと思うんで、道路へ出る道だけでも教えてもらえませんか?」

「そうね……ここからだとそんなに遠くはないと思うけど……
 それよりもあなたたち、ここまで随分歩いてきてクタクタでしょ?」

確かに一見しただけでわかるほど、2人の体からは疲労がにじみ出ていた。

「ちょっと休んでいきなさいよ。ジュースぐらいはご馳走するわ」

ハルカはちょっと迷った表情を見せたが、すぐにその誘いにのることにした。それはアヤも同じだった。






「うわぁ〜……」

通されたリビングは昆虫の標本で壁を埋め尽くすように飾られており、2人はそれに圧倒されるように
感嘆の言葉を漏らした。

「どう?驚いたでしょ?これ、み〜んな私のコレクションなの」

キッチンからトレーを持って現れた女性が軽く自慢げにそう言った。

「ささ、座って」

2人をテーブルにつかせるとトレーに乗ったグラスを差し出した。
グラスは薄いピンクの液体と幾片かの氷で満たされており、外気温との差から表面には
すでに結露が始まっていた。2人は返事もそこそこに、グラスから伸びたストローに口をつけ
渇ききった喉を一気に潤した。

「美味しい〜っ、生き返るわ〜」

グラスの4分の1程度一口で飲み終えたハルカは、感激の言葉を漏らした。

それにやや遅れて一口目を飲み終えたアヤも、ストローから口を離しつぶやいた。

「美味しいですね。何のジュースなんですか、これ?えと……」

アヤが言葉に詰まった様子を感じ取り、女性がその後を続ける。

「あぁ、自己紹介がまだだったわね。私の名前は加賀美レイ。東京の大学で古生物……主に昆虫の研究をやってるの」

それに合わせて2人も自己紹介をすると、レイは続けた。

「それ、美味しいでしょ?実はね……ある昆虫が集めた蜜を使ってるの。珍しいでしょ?」

「へぇ〜、昆虫の蜜を使ったジュースなんてさすが昆虫学者ですね」

二口目を飲み終えたハルカが感心してそう言った。

「じゃぁ、この標本も……」

壁に飾られた蝶や蜂・甲虫や鍬形虫のようなパッと見て分かるものから、その他名前も知らないような
数多くの昆虫の標本を見回してアヤが質問した。

「ええ、趣味と実益を兼ねて、といったところかしら。……あら、あなたもう飲み干しちゃったのね。
 おかわりはいかが?」

いつの間にか空になっているグラスに気づいてレイがそう言うと、アヤは照れくさそうに下を向いた。

「あれ、もう飲んじゃったの、アヤ?珍しいね」

日ごろからおしとやかでマナーを重んじるアヤが、ましてや人に出された物を一気に
片付けてしまうなど、
10年来の親友であるハルカでも見たことがなかった。

「よっぽど喉が渇いていたのね……気にしないで、おかわりならまだまだあるから。
 待ってて、持ってきてあげるわ」

にこやかな微笑を浮かべながらそう言って加賀美が再びキッチンに消えるのを見ながら
ハルカは再びストローに口をつけた。

(あれ……?何だろ、この匂い……確か……)

最初には気づかなかったが、それは口にしているジュースから漂う甘い香りだった。
ハルカには確かにその匂いを嗅いだ記憶があった。
しかし、それがいつどこでだったのかだけがはっきりと思い出せない。
街角の花屋だったか……それとも、今歩いてきた山道で……
そうだ、確かさっき霧の中で息を吸い込んだ時に……

甘い香りに包まれながらぼんやりと記憶を辿っていたその時だった。
ゴロリ……と音がした。

「……アヤ……?」

ぼんやりと霞がかった頭のまま隣に座っていたアヤを見やると、彼女の上半身は
テーブルの上に倒れていた。先ほどの音はその拍子にグラスを倒してしまったのだろう
空になったグラスが横になって揺れている。

「……ア……ヤ……?」

ハルカはアヤに呼びかけたが、それは言葉にならないうちに掻き消えた。
ハルカの頭の中を思考の霞が覆いつくし、やがて彼女も意識を失ってテーブルの上に突っ伏した。










暗い水の底から急速に浮上するように、意識に光が差し込んでくる。

「う……う―――ん……」

軽いうめき声を挙げながらハルカは意識を取り戻した。まず最初に聴覚が回復し、辺りの音が耳に入ってきた。

ん……ピチャ……ピチャ…ピチャ……んぐ……ピチャ……っんーん……ピチャ……

皿に注がれたミルクを舐める猫のような湿った音と、時折女性のくぐもった声が聞こえる。
さらに微かにではあるが、「ギ……ギ……」という何かをすり合わせるような音もする。

次に、焦点が合わずぼやけていた視覚がゆっくりと回復していった。
最初のうちは薄暗い部屋の中で弱弱しい照明だけが心もとなそうに辺りを照らしているだけだったが
次第に部屋の中にあるものがはっきりとしてくる。部屋の中央にはベッドのようなものが
そしてその上には2人の人影があった。1人はベッドの上に横たわり、もう1人は横たわっている
人間の頭の上に跨って、ゆっくりと、そしてねっとりと腰を動かしている。
視覚が完全に回復した時、ハルカは息を呑み我が目を疑わざるを得なかった。ベッドに横たわる人物は身につけている服装から
確かに彼女の親友・アヤだったが、その顔の上に跨っている相手があまりにも異形の姿だったのだから。



見たこともない怪物とその下に組み敷かれている親友の姿を確認した時点で
ショックと恐怖のあまり一瞬思考停止してしまったハルカに代わりその異形の姿を描写すると
そのシルエットは確かに人間のそれを基本としていた。
しかし腕は上腕の途中から、足は太ももの辺りから、体のあちこちが光沢をもった黒に染まっている。
しかしそれは人間の肌のような柔軟さではなく、昆虫の外骨格のような硬質さを持っていることが見て取れた。

体の前面の方は、胸とわき腹の辺りを手足と同じような外骨格が覆っているだけで、正面のほとんどの部分は
人間の肌がそのまま露出している。もちろん本来隠すべき部分も今は大胆にも露にされており
同じ女性であるハルカでさえも思わず目をそむけてしまいそうになったくらいだ。

背中からは3対の節のある棒が伸び、それぞれが下になっているアヤの手足を押さえつけえいたが
それはよく見ると硬質の外骨格が強靭そうな筋肉によって繋ぎ止められた昆虫の「脚」であった。
同じように背中にある「脚」の付け根の中央からは2対の筋ばしった「翅」が生えているが
今は畳まれた状態になっている。

垂れ下がる長い髪がうつむいた顔を覆っているため表情を確認することは出来なかったが
頭部でまず目に付いたのは額の辺りから伸びた2本のアンテナ、それは昆虫の「触角」に似ており
途中で折れ曲がっている。頭頂部は体を覆う外骨格と同質のヘルメットのようなものを被っているが
その正面には赤く爛々と光る昆虫の「眼」のようなものがついている。


「あら、そちらのお譲ちゃんはもう起きちゃったみたいね」

アヤの上に乗った怪物が、髪を掻き揚げながら顔をあげハルカの方に向き直る。
目の下の濃いアイシャドーや頬に奇妙な筋模様描かれているものの、それは先刻彼女たちを
招き入れてくれた加賀美レイ、彼女のものだった。

言葉を失い顔面蒼白のハルカに、先ほどの彼女たちにジュースを振舞ってくれた時と
変わりの無い微笑を向けながら加賀美は続けた。

「もうちょっと待っててもらえるかしら。この娘にたっぷり飲ませてあげた後は、あなたにもわけてあげるから……」

「の、飲ませる……?」

やっとのことで声を絞り出したハルカが尋ねる。

「あら、さっきも飲んだじゃない?ある昆虫の「蜜」よ……もっとも、さっきのアレには睡眠薬も混ぜといたのだけどね……」

ハルカに答える間も、加賀美は腰の動きを休めなかった。
彼女は女性として隠すべき部分をアヤの口にあてがい、そこから止め処も無く溢れ続ける液体を
無理やりアヤに浴びせるように無理やり飲ませている。
その様子はさながら罪人に自白を促せるための拷問の1つ・水責めを思わせた。
アヤの意識はまだ回復しきっていない様子だったが、間断なく液体を注がれて息苦しいのか
加賀美の太ももの間から時折くぐもった声を上げる。

「み、「蜜」って……加賀美さん、その姿は一体……」

「フフ……この姿のときの私は加賀美レイではないわ……インセクター・ニビルレイ……そう呼んでちょうだい……」

相変わらず口調は穏やかだったが、妖しく冷たい微笑を浮かべながら加賀美、
いやニビルレイと名乗ったその怪物は言った。

「今からおよそ4億年前……」

ひとりごちるようにニビルレイは話し始めた。

「地球上に、現在の昆虫の祖先が誕生したわ……いえ、正確には「やってきた」と言うべきかしらね」

「『やって……きた』?」

ハルカが疑問を浮かべた。

「そう、それが「インセクター」と呼ばれる宇宙生物だったの。
 彼らは地球を支配しようと、「マザー」を中心にして繁殖を開始した……だけど……」

ニビルレイはそこで言葉を区切った。

「彼らの計画は思うように進まなかった……おそらく進化の過程がうまくいかなかったのだと思うけど
 とにかくその時点では地球を支配するには至らず、仕方なく現在の「昆虫」として生きることを
 余儀なくされたわ……計画を断念した「マザー」は、自らを蛹化し地中深く篭ることで
 次の機会を待つことにしたの……」

ハルカはわけもわからず黙って聞いているしかない。

「そして時は現代に移り、その蛹化した「マザー」は暗い地中から掘り起こされ、偶然にも私の下へもたらされた……
 研究を進めるうちにそれがさっき言ったような地球外の存在であることがわかった……
 いいえ、わかったというよりもそれは突然のように頭に閃いた、って感じだったわ。
 今思うと、あれは蛹の中から「マザー」――彼女は自分のことを「ニビル」と言ったわ――が教えてくれてたのね……」

ニビルレイは過去を振り返るように視線を宙に浮かべた。

「さてと、これくらいで十分かしらね……」

体の下のアヤの様子を見やりながら動きを止め、ニビルレイはそう言うと、アヤの手足から
6本の「脚」による拘束を解いてゆっくりと立ち上がった。

大量の液体を無理やり飲まされたせいか彼女の足元に横たわるアヤは、意識を失ったままぐったりとのびている。

「あとは……」

ベッドから降り、恐怖に体をこわばらせているハルカにニビルレイが近づいてくる。

「あなたたちが生まれ変わった後で、ゆっくりと教えてあげるわ……」

「い、いやーっ!こ、こないでよーっ!」

叫びながら必死の思いで逃げようとしたハルカだったが、そのとき初めて自分の両腕が
何かに掴まれていることに気づいた。唯一自由になる首を動かして隣を見ると、黒っぽい衣装の人間が
彼女の両腕を左右から支えていたのだった。

いや、それは衣装でもなければ人間でも無かった。そこには巨大な――二足歩行の蟻、
そう表現するのが最適な怪物がいた。先ほど耳にした「ギ……ギ……」という音は、
この怪物たちが発している音だった。

「きゃ―――っ!な、なんなのよコレ!?」

自分を左右から拘束している2匹の怪物の姿を見て、ハルカは一際大きな叫び声をあげた。

「ああそれね。私たちは「レギオロイド」って呼んでるわ。
 試しにこの辺の別荘の人たちに私の「蜜」を飲ませたんだけど、どうやっても蟻人間にしかならないのよね……」

そう言いながらも、ニビルレイはハルカに近づくとまるで品定めをするかのように彼女の顎に手を掛けた。

「でも、安心して……ようやく「やり方」がわかったから……あなたたちはそうはならないわ……」

そしていつの間にか自分の股間にやっていたもう片方の手をハルカの前に差し出す。
その手には粘り気のある「蜜」が甘い香りを漂わせながら滴っている。
霧の中やジュースの時よりも遥かに濃いその香りを嗅いでいると、ハルカの頭から正常な思考が奪われていくようだった。

「さぁ……あなたにも、ア・ゲ・ル……」

顎に掛けた手に力を加え強引にハルカの口を開かせると、「蜜」の滴る手をそこへ近づけていった。




その時だった。

部屋の片隅にあった扉が大きな音ともに勢いよく開かれ、缶のようなものが転がり込んできた。

「誰!?」

その音にニビルレイが振り向くと同時に、投げ込まれた缶からは煙がもくもくと吹き出した。





back...  next...