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煙はあれよあれよという間に立ち込め、そう広いとはいえない部屋の中に充満し始めた。

「こ、これは!?」

その煙に含まれる刺激臭に反応したニビルレイが声をあげる。

「誰!?そこにいるのは!?」

煙を吸わないように手で口を押さえながら、部屋の片隅の開け放たれた扉に向かって叫ぶが早いか、
1人の人影が部屋の中に飛び込んできた。

その人影は一直線にニビルレイの方へと向かうと、彼女に鋭い槍のようなタックルを見舞った。
不意をつかれたことと、後ろを振り返っていた体勢が重なって、
ニビルレイは吹き飛ばされ壁に叩きつけられる。

ニビルレイと入れ替わるようにハルカの前に現れた人影が、ゆっくりと立ち上がり彼女の方へ向き直る。
その人物は顔全体を覆ういわゆるガスマスクをつけているため表情は分からないが、体つきと
長く伸びる髪からおそらく女性だろうということがわかった。彼女は指だけ出したグローブをはめた手で
ハルカの顔――特に額の辺りを、何かを確かめるように撫で回す。
そして軽く頷くとハルカにタオルを差し出し、それを口にあてがう仕草でハルカにもそうするように伝えた。

差し出されたタオルを受け取ろうとして初めて、それまで彼女の両腕を拘束していた力が
緩んでいることに気がついた。受け取ったタオルを口にあてながらふと左右を見ると、そこでは
アリ人間が「ギィ……ギィ……」と、先ほどとは違う、明らかに苦しそうなトーンの声をあげながら悶えていた。

部屋の隅に目をやると、タックルで突き飛ばされたニビルレイが咳き込みながら立ち上がろうとしていたが、
その動きはどこか緩慢だった。
不意にガスマスクの女性がハルカの腕を
つかんで引っ張り、扉の方へ誘導しようとした。
しかし、ハルカは大事なことを伝えようと思わずタオルを話して叫んだ。

「まだ……友達が……!」

その途端煙がハルカの鼻・目・喉を刺激し彼女は咳き込む。
その苦しさを和らげようと再びタオルを口に当てる一方で、アヤが寝かされていたベッドの方を指差した。

すると、女性はハルカの体を半ば強引に扉の方へ押しやり、自分はハルカに指示されたベッドの方へ駆けた。
押し出されて扉のところまで出てきたハルカが後ろを振り返ると、元々の部屋の暗さと
すでに充満しきっていた煙でよく見えなかったが、女性がアヤの体をすばやく抱き起こし
肩に担ごうとしていたのが見えた。

同時にその背後から、よろよろと近づく影が見えた。

(危ない!)

ハルカは思わず叫びそうになったが、先ほど煙を吸い込んだ教訓からぐっとこらえた。
煙の向こうから現れたのは、苦しみながらも何とか女性に襲い掛かろうとしていたアリ人間だった。
しかし、女性はその気配を感じ取っていたのか、アヤの体を支えたまま体を屈めると、
アリ人間の足元に床面を薙ぎ払うような回し蹴りを食らわせる。

その衝撃にアリ人間の体がよろめき、そのままもう一方から彼女に襲い掛かろうとしていた
もう1匹のアリ人間を巻き込みながら、音を立てて壁に倒れこむ。
あっという間に2匹のアリ人間の襲撃を退けた彼女は、改めてアヤの体を肩に担ぐと出口の方へ向かう。

そして扉のところに立っていたハルカのところまでやってくると身につけていたガスマスクを外した。
マスクの下から現れた顔は、化粧は薄かったがそれでも十分なくらいに美しかった。
年齢はハルカやアヤより少し年上と思われる。

「さぁ、逃げるわよ。悪いけど彼女を運ぶの手伝って」

そう言うと彼女はグッタリとしているアヤの片腕をハルカの方へと預けた。
そうして二人がかりでアヤの体を担いで、彼女たちは別荘の入り口の方へと出来る限りの速さで歩き出した。
後ろの部屋では、煙の向こう側からギィギィというアリ人間のうめき声と、ニビルレイの咳き込む声が聞こえていた。






別荘を出るとすでに日は傾き夕闇が辺りを覆い始めていた。
女性の案内で近くの茂みを抜けると、舗装道路に一台の軽自動車が停められている。

「乗って!」

後ろの座席へハルカとアヤを乗せると、彼女は素早くエンジンキーを回し急加速で別荘を後にした。




車を走らせて数分、アヤはいまだぐったりとしたままハルカの体に体重を預けている。
ハルカはぐしょぬれになったアヤの顔を手渡されたタオルで拭いてやりながら、前の席の女性を
バックミラー越しに見ていた。

ふとバックミラーで後方確認をしようとした女性が、ハルカの視線に気づいて口を開いた。

「あなたたち大丈夫?何ともない?」

「あ、ハイ……ちょっとまだ手足がダルい感じがしますけど……」

「……そう」

「あ、あの……ありがとうございました。え、と……?」

感謝を述べたハルカの言葉がつまる。

「私は実藤サトミ。大学で加賀美先生の助手を務めていたの―――」

「えっ。加賀美先生って……」

「……詳しいことは長くなるからホテルについてから話すわ。とりあえず今は休んでて……」

会話はそこでいったん途切れ、車はそのまま山中の道路を走り続けた。









車がホテルに到着した頃には、もう夜空に星が出ていた。

2人はサトミの部屋にアヤを担ぎ込み、彼女をベッドに寝かせた。

「……さてと……何から話したらいいかしらね。それとも……これは夢ってことにして納得しとく?」

部屋の中のソファに座ったハルカを前にしてサトミが言った。

ハルカは少しの間口ごもっていたが、やがて静かに口を開いた。

「何なんですか、あの『イン…』なんとかって化け物は……?『宇宙からきた』とか言ってましたけど……」

ハルカの問いにサトミは軽いため息をついた後答えた。

「そうね、見ちゃったものはしょうがないわよね……だけど、私の話を聞いたら後には戻れなくなるわよ……?」

ハルカはやや逡巡したが、やがて息を呑みながらゆっくりと首を縦に振った。

「そう……やつらは「インセクター」。正真正銘、宇宙から来た生物なの……」

サトミは静かに話し始めた。

「「あれ」が加賀美先生の研究室に持ち込まれたのは、もう2ヶ月も前かしら……」

とある発掘現場から発見されたというそれは、ぱっと見ただの化石のようだった。
その表面は鉱物化してはいたが、顔の大部分を占める巨大な複眼、節のある3対の脚、
表面に筋が走る翅など部分的に昆虫的な特徴が見て取れた。
それはいわば幼虫が成虫になる過程で通る「蛹」の状態に似ていた。
しかし若くして古生物学を修めた加賀美レイの知識を持ってしても、これほどまでに大きな昆虫は
古代にも、ましてや現代においても存在しうるはずがなかった。
加賀美研究室はその保管と研究を任されることになった。





「……それから私たちはさまざまな実験や研究を行ったのだけど、結局何ひとつわからなかったわ……」

そんな中、ある日加賀美が「これは1つの仮説だけど……」と前置きをしながら、
「昆虫の始祖」説を提唱した。古生物社会においてこの巨大な謎の生物が昆虫類の「女王」的な存在として、
さまざまな昆虫族を統制していたのだ、と。それはあまりにも唐突な仮説だったが、加賀美の言葉は
奇妙な自信に満ちていた。もちろん最初のうちは、サトミをはじめ彼女の周りにいた他の研究者たちは
それを信じてはいなかった。だが、不思議なことに加賀美が自説を唱え始めてから「蛹」についての研究は
加速度的に進行し始め、すこしずつその正体が見えてき始めた。
そのことに加えて、自説を唱え続ける加賀美の熱心さに推され始めてか、周囲の人間もやがて
加賀美の説を信じざるを得なくなっていった。





「そして研究がある程度完成して、先生はそれを学会に発表することにしたの……
 だけどその結果は……散々だったわ」

当然といえば当然の結果だった。すでに完成された大系の存在する学問分野において、
絵空事のような突飛な学説はまず「異端」と見なされる。もしそれが後にコペルニクス的展開を見せて
学問大系に受け入れられることがあるとしても、それには膨大な年月と後世の研究者による
検証のための研究が必要とされるものである。一大学の一研究者が唱えるそれなど、
すぐに受け入れられるはずもなかった。





「……あの発表の後、私たちの前では相変わらず気丈に振舞っていたけど、
 先生は相当のショックだったみたい……その次の日から先生は変わり始めたわ……」

加賀美は次第に人を遠ざけるようになった。彼女の部屋には数人のごく近しい助手しか、
それも1日に入れることがあるかないかというほどだった。

「……そんなある時私は見てしまった……
 先生の部屋にあった研究メモに書かれていたその恐ろしい計画を……
 それはやつら「インセクター」と私たち「人間」の融合を試みたものだったのよ」

「私がそれを見てしまった次の日、先生は「それ」とともに行き先も告げずに姿を消してしまった。
 私はどうしても、あの日見た計画について尋ねるために……
 もしできることならそれを止めるよう説得するために先生を探したわ……
 そうして、あの別荘――先生が毎年避暑を兼ねて論文の執筆にこもる場所――
 にたどり着いたの。そしたらあの場面に遭遇したってわけね……」

そこまで一気に話し終えると、サトミはいったん言葉を区切った。

「じゃあ私たちが見たあの「ニビルレイ」っていうのは……」

「おそらく、先生自身があの蛹を蘇らせそれと融合した姿ね……
 あの大きなアリは多分人間をインセクターかしたものだと思うわ……
 残された先生の論文には「人間とインセクターの融合」の他に
 「マザーによる人間のインセクター化」の可能性も示唆されていたから……」

「に、人間をインセクター化、って……」

「残されたメモにはこうあったわ。「マザーは人間の血液等を吸い取り自らの栄養分とする。
 それと同時にその一部を「蜜」へと変化させ、それを飲ませることにより人間を
 「インセクター」と化すことが出来る」……」

それを聞いたハルカの顔がみるみるうちに青ざめていく。

「じゃ、じゃあ「あれ」を飲まされた私たちも……私とアヤもあんな化け物に……?」

「ごめんなさい……正直なところ、今の時点では症状が現れていないから何とも言えないわ……」

その言葉が追い討ちとなったのかハルカは激しいショックを受け、がっくりとうなだれる。

「……心配しないで。でもそれは、もしかしたら助かる方法もあるかもしれない、ってことだから。
 実は学会では誰も信じてくれなかったけど、協力者もいないわけじゃないわ。
 その人たちと相談してこれからの対策を練るつもりなの……
 もしかしたらあなたたちを助けることができるかもしれない……だから、あなたたちにも協力してほしいの……」

ハルカが戸惑いを見せたとき、ベッドに横たわっていたアヤが目を覚ました。

「あ、アヤ、気がついたの?よかった〜」

先ほどサトミの言葉から受けたショックを必死で隠し、ハルカはアヤに声を掛けた。
アヤはぼんやりとした目で辺りを見回したが、もちろん状況がよく飲み込めるはずもなかった。

「……あ、あれ?ハルカ……ここ、どこ?……私、どうして……たの……?」

その問いに、ハルカ自身今の状況を上手く説明できる言葉をみつけることが出来なかった。

「えーと、えとー……あっ、そ、そうだ。アヤ、気分はどう?」

「……うん、何だか、体がふわふわしてるような……でも、気持ち悪い、とかはないよ……」

苦し紛れに質問で返してしまったハルカは、アヤのその答えにほっと胸をなでおろした。

「よかった……アヤ、もう少し寝てなよ。おやすみ」

「うん……」

状況をよく飲み込めないまま、アヤは再び眠りについた。

「まぁそっちの彼女にも状況を説明しないといけないし、あなたも考える時間が必要だと思うわ」

そう言うとサトミはソファーから立ち上がった。

「今夜はここで寝るといいわ……私は隣に部屋をとるから、何かあったら言ってちょうだい」










夜はすぐにその濃さを増し、明かり無しでは辺りが見えないくらいに闇に包まれた。

ハルカ・アヤ・サトミの3人が泊まったホテルの裏側、ちょっとした丘陵になっている森の中に
辺りを包む闇と同じ色の黒いコートをまとった人物が歩いていた。
フードを被っているがその中にある顔は加賀美レイのものだった。

彼女は微笑むようにその唇の端を吊り上げている。
と、木立の中を行く彼女の前で空気を震わせるブンブンという羽音がした。
明かりもないその場所で、加賀美はその音の正体が自らの巣を守るように飛び回る蜂のそれだと察知した。
普通の人間ならば彼らをむやみに刺激しないように慎重になるところだが、彼女は
それにかまう事無くどんどん歩いていく。加賀美が蜂の巣までの距離を縮めた時、
自分たちのテリトリーに踏み込んだ外敵を襲撃するために、いっそう凶悪な羽音を立てながら
1匹の蜂が彼女に向かって飛び込んできた。

一直線に自分目掛けて飛んでくるその蜂に対し、加賀美はすっと人差し指を突き立てる。
すると、猛スピードで飛んでくる切り込み隊長のその蜂はピタリと空中に静止した。
それはホバリングのようにその場で羽ばたいているのではなく、その羽ばたきさえも完全に止めた、
まるでそこだけ写真として切り取ったような完全なる「静止」状態だった。

蜂が完全に静止したことを確認すると、加賀美は指を突き出していたその手を空から落ちてくる雨粒を
受け取るような手つきに変えて蜂に近づく。そして差し出した掌が蜂の真下にくると、次の瞬間空中に静止していた蜂はゆっくりと、まるで導かれるように加賀美の掌に収まった。

「フフ……」

掌の中で眠るように動かない蜂を見ながら、加賀美はほくそえんでいた。






「うっ……う―――ん……」

毛布を被りソファで寝ていたハルカは、アヤの苦しげな声で目を覚ました。

「どうしたの、アヤ!大丈夫!?」

ベッドにすばやく駆け寄ると、うなされているアヤの体をさすってやる。

「あ……熱い……体が……熱いの……」

アヤの額に手を当てると、体温計で測るまでもなく異常な体温であることが分かる。

「それに……何だか……頭も……痛い……ああああ―――――っ」

額に当てられたハルカの手を振り解くようにアヤは頭を抱えながらベッドの上でのた打ち回る。

「ちょっと待っててね。サトミさん、呼んでくるから……すぐ戻るから!」

そう言ってハルカが脱兎のごとく部屋を飛び出すと同時に、アヤは再び気を失った。





ハルカがサトミを呼びに行った後、ベッドの上で1人残されたアヤの体に変化が起き始めていた。

額の皮膚が隆起し、その下に何かがいるかのように蠢いたかと思うと、2本の角のようなものが
伸び途中で折れ曲がる。それはあのニビルレイの額から伸びていたのと同じ昆虫の「触角」だった。

(……起きなさい……)

突き出した触角が微かに振動すると、アヤの頭の中に何者かの声が響いた。

(……起きなさい……)

再び声が響くと、アヤは閉じていた瞼を開く。しかしその下から現れた瞳は黒く闇に濁っていた。

(……来るのよ、私の下へ……)

声が、囁いた。アヤは上体を起こしベッドから降りると、部屋の外、それもドアではなく窓の方へとゆっくり歩いていく。

窓の前へ来ると、閉じられたカーテンを開く。三日月の光がアヤの体を照らし出し、部屋の絨毯に長い影を落とした。

そして掛けられていた鍵を外し窓を開け放つと、その体を自ら外へ投げ出した。






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