(4)

「サトミさん……サトミさん!」

ハルカが声を上げながら隣室のドアを激しく叩くと、やがて鍵の外れる音がして中からサトミが顔を出した。

「どうしたの!落ち着いて!」

「アヤが……アヤが、すごい熱を出して……」

ハルカはサトミを連れて自分たちの部屋へと舞い戻った。しかし、ベッドの上にアヤの姿は無く、
開け放たれた窓から吹き込む夜風がカーテンを揺らしていた。

「まさか……遅かったか」

サトミは舌打ちした。そして急いで自分の部屋に戻ると一本のスプレー缶を持ってきた。

「これを……」

通常ハエやゴキブリなどの害虫に用いるあの缶を思わせるそれを、ハルカの手に持たせる。

「これって……」

「やつが――「マザー」がそこまで来てる……何が起こるかわからないからあなたはそれを持ってて。
 その中にはあなたたちを助けたときに使ったのと同じ、「インセクター」をひるませるガスがつまってるわ。
 もしもの時はそれで応戦して」

「え?どういう……」

事情が飲み込め切れてないハルカに、サトミは言葉を続けた。

「あなたのお友達は、恐らくこの近くに来ている「マザー」に呼び出されたに違いないわ」

その言葉に、ハルカは固唾を呑んで耳を傾けた。

「でもまだ希望はあるわ。彼女が「マザー」に接触する前に助け出すことが出来れば……」

「出来ないと……どうなっちゃうんですか?」

サトミはいったん言葉を区切り、その後に残酷な現実をハルカに突きつけるしかなかった。

「彼女は……完全にやつらの仲間――インセクターと化してしまうわ……」

「そ、そんな!」

「だから」

そういうとサトミは振り返りドアの方へ歩いていく。

「あなたはホテルの外へ出て彼女を探して。私は「マザー」の方を探すわ」

「そんな!サトミさんも何か持たないと……」

慌てて後を追いかけようとしたハルカに、サトミは身につけていたジャケットを開き
その内ポケットをハルカの方へ見せた。

「大丈夫。私だって丸腰ってわけじゃないわよ」

そこには、ハルカがテレビの中でしか見たことのない、一丁の拳銃が収められていた。

「いいこと?彼女がすでにインセクター化していたら……額に2本の触角が生えていたなら、
 躊躇わずそのガスを発射してその隙に逃げなさい。いいわね」

そう言ったサトミの横顔は緊張感に満ちていた。









群雲に月の光さえも遮られた森の中、茂みを掻き分けて1人の少女が明かりも持たずに歩いてくる。

「来たわね……」

少女がやってきたそこには、周りの木々よりも遥かに高い一本の大きな樹が聳え立っており、
その下には闇と同じ色のコートをまとった女性が立っていた。

少女――アヤはフラフラとその女性の下へ歩み寄ると、生気の抜けたような表情と、
夢を見ているかのようなぼんやりとした視線を彼女に向けた。

「思ったとおり、ちょうどいい頃合のようね。やるべきことは……わかっているわね?」

フードを脱ぎ触角をあらわにした加賀美――いやその姿はニビルレイと呼ぶべきか――が
アヤに語りかけると、アヤは静かに頷き着ている服をゆっくりと脱ぎ始めた。

程なくして、タイミングよく差し込んできた月の光をスポットライトに、アヤの裸体が
ニビルレイの前にさらけ出される。
次の瞬間、アヤの口から白い糸が次々と吐き出されていく。
それはどんどん彼女の体を取り巻いていき、やがて1つの巨大な「繭」を形成した。

その様子を黙って、しかし嬉しそうに見ていたニビルレイは「繭」が出来上がったのを確認すると、
軽く握っていた拳を開く。

「これは、あなたにあげるわ」

ゆっくりと開かれたその掌の中には先ほど彼女が捕らえた一匹の蜂がいた。
その掌がぽうっと淡く輝くと、それまで死んだように動かなかったその蜂が徐々に動き始める。
やがて翅を羽ばたかせて、目の前にある「繭」の方へと飛んでいった蜂が「繭」の表面に着地すると、
まるでそれと混ざり合うかのようにその中へと姿を消した。

「私は先に行ってるわ……」

ニビルレイは「繭」を優しく撫でそう言い残すと、アヤが歩いてきた茂みの方へと消えていった。









「ユカったら、よりによってなんで肝試しなんかしよう、って言うのよ〜」

誰に聞かせるともない独り言をぼやきながらカナエは、びくびくしながら森の中を歩いていた。
それは手にした懐中電灯の明かり以外に頼るもののない心細さを、声を出すことによって
少しでも解消しようという意識の現われだったのかもしれない。

カナエとユカ、そしてノゾミの3人は夏休みを利用してこの高原へ遊びに来ていたのだが、
なにぶん都会と違い夜になると遊ぶ場所もなく退屈を持て余していた。
そんな中、3人の中でもリーダー格のユカが提案したのがこの「肝試し」だった。
ホテルの裏側にある小高い丘、その頂に一際高く伸びている一本杉があることは、
昼間のうちにこの辺りを散策していてわかっていた。その一本杉のところまで1人で行く、
それが肝試しのルールだった。そしてじゃんけんの結果、3人の中でも
一番の怖がり屋であるカナエが最初に行くことになってしまったのだった。

「あ、あれかな?」

懐中電灯の明かりの先に一際太い樹の幹が照らし出された。
さっさと終わらせて帰ろう、その思いがカナエの歩を速めさせた。一本杉に近づくにつれ、
明かりに切り取られた部分が幹の周囲をもはっきりと照らし出す。

「?」

と、そこにカナエは奇妙なものを見つけた。
白い、雪だるまのようなものが木の幹の横に転がっているのだ。
しかし、いくらなんでもこの季節に雪だるまは似合わない。
不思議に思ったカナエは、人一倍怖がり屋のくせに好奇心は旺盛――いわゆる怖いもの見たさから
そちらの方へ懐中電灯を向ける。明かりに映し出されたそれは、人の大きさはあろうかという
白いカプセル状の形をしており、光を反射して微かにキラキラと輝いている。
何かに惹かれるようにカナエはゆっくりとそれに近寄ってみる。
そこまで近づいて分かったのだがその白い物体の周りからは
何本もの同じ色の糸が出ており、地面に根を張るように伸びて「それ」を支えている。

ドクン!

恐々と手を伸ばしそれに触れた途端、その内側から何か心臓の鼓動のようなものがして、
カナエは思わず手を引っ込めてしまう。最初それは自らの心臓の音かと思ったが、
彼女の心臓は激しい運動の後のように早鐘を打っている。再び確かめようと、震える手をそれに近づけていく。

ドクン!ビクン!

今度は手を触れる前に鼓動の音がした。
しかも今度はわずかに「それ」自体が揺れたような気がして、カナエは素早く手を引っ込めると
同時にすこし後ずさった。

「な、何?何なのよ、コレ〜」

その声には微かに涙が混じっていた。再び懐中電灯をそれに向けると、それはもう動いていなかった。

「き、気のせいよね……」

そう言うと意識して「それ」を見ないようになしながらカナエはポケットを探り、
中から昼間土産物屋の店先で撮ったプリクラを取り出した。
これを樹の幹に張って戻る、それによって一本杉まで行ったことを証明するのだった。

ピキ……

台紙からシールを剥がそうとしたその時、後ろで卵の殻が割れるような音がした。
その音にカナエは身を凍りつかせてしまう。

「き、気のせいだってば……」

ピキ……ピキ……

無情にもカナエの言葉を否定するかのようにその音は止まなかった。

ピキ……ピキピキッ……パキ……

さっきから高まったままいっこうに静まる様子のないカナエの鼓動に共振するかのように、
その音が早まっていく。それでもカナエは後ろを振り返らないよう必死に努力した。
いや、もはや恐怖で振り返ることができない、というのが正しかった。

やがて何かが倒れる音がして辺りは元の静寂さを取り戻した。
もしもそこでカナエが後ろを振り返ることなく、一目散にやって来た道を引き返していたなら、
彼女には助かる可能性があったかもしれない。
しかし、震えながらもゆっくりと振り返り始めた首の動きを止めることは、もう出来なかった。

「……え……?」

カナエは言葉を失った。2つに割れた白いカプセルの間に「女性」が背を向けて立っていた。
しかしそう見えるのは基本的なプロポーションだけで、それ以上に人ならざる異形のパーツが目に付いた。
それは背中から生えた「翅」であり、頭の上に見える2本の「触角」、
そして体の各部を覆うプロテクターのようなもの。
それらが、雲の間から顔を出した月の明かりに照らし出され、奇妙なシルエットを見せていた。
思わず手にしていた懐中電灯をそちらに向けてしまうカナエ。
その明かりに気づいた「彼女」は、向こうを見ていた顔をゆっくりとカナエの方へ向けた。





「キャ―――――ッ!」

普通ならそう叫ぶとともに駆け出す場面だった。
少なくとも助かろうとするならそうすべきだった。
しかし、信じられないものを見たという驚きと、そして何より恐怖から脚はおろか
喉の奥まですくませていたカナエは、ただただ身を震わせることしか出来なかった。

振り返った「彼女」の顔は、目の辺りを覆う大きなゴーグルが印象的で、
あとの部分は口の周りを残して黄色いマスクを被ったようになっている。
そして額から伸びた2本の触角と合わせて、それらはまるで蜂の貌を思わせた。
彼女の体のあちこちを覆っているプロテクターのようなものもよく見ると黄色と黒の縞模様が入っており、
ところどころ露出している皮膚の色こそ人間のそれであったものの、
カナエは昔見た特撮番組に出ていた蜂人間、正しく言うなら蜂女を思い出していた。

体を振り返らせた蜂女が、こちらへゆっくりと歩いてくる。
それでもまだカナエは凍えたようにガチガチと歯を鳴らしながら、何とかして恐怖にすくんで
動かない体を後ずらせようとしていた。

「ヒィ〜〜〜〜〜ッ」

しかし意識レベルだけで動かそうとした肉体はバランスを崩してしまい、日常では
とても出せないような情けない悲鳴を上げながら、カナエは腰を抜かしてその場へへたり込んでしまった。

蜂女は、唯一表情を表すことの出来る唇の端を嬉しそうに吊り上げながら、
なおもゆっくりと間合いを詰めてくる。

「ひ、ひ、ひ、ヒィ〜〜〜ャァ」

先ほどの悲鳴で喉が緩んだのか、それでもなお言葉にならない声を上げながら体を必死に後ろへ後ずらせる。
蜂女はカナエまでの距離を最初の約半分にまで詰めた地点で立ち止まると、腰につけていた細剣を手にした。

カナエはその武器を見てようやく自らの「死」を意識した。蜂女が手にした細剣を突き刺すにしろ、
カナエの体を切り刻むにしろ、ここで逃げなければ命はない。
そう覚悟した瞬間、カナエは残った力を振り絞った。

ヒュッ!

蜂女がそれを見て手にした細剣を、空気を切り裂く音とともに縦に振り下ろすと
その先端から何かが飛び出した。
僅かな月の光を反射してキラリと輝いたそれは一直線に闇を横切ると、立ち上がり逃げ出そうと
後ろを振り返っていたカナエのうなじに突き刺さった。

「あぅ……」

逃げ出そうとした勢いのまま、空気が抜けた人形のようにカナエの体が前のめりに崩れる。
草の茂る地面に横たわったその体は、しばらくの間微かな痙攣を続けていたが、
やがてそれすらも止めてしまう。

うなじに刺さった「針」から紫色の染みのようなものが広がり、それは蜂のシルエットのような痣を
カナエの首筋に刻んだ。







「カナエ、おっそいね〜」

「大方、道の途中でへたり込んで一歩も動けないんじゃないの?」

丘の上の一本杉に至る山道の入り口で、ユカとノゾミは先に出発したカナエの身を、
半ばからかいながらも案じていた。昼間に一本杉を見に行った時は軽い傾斜の山道とはいえ往復に
20分もかからなかったのだが、カナエが出発してすでに30分が過ぎようとしていた。

「ね、ね、私たちも行ってみない?」

イタズラ好きのユカがふと思いついて嬉しそうにノゾミにもちかけた。

「え?でも、まだカナエ戻ってきてないよ」

「バッカね〜、だからこそ戻ってくるところを脅かそうってわけじゃない」

「え〜、やめとこうよ〜。懐中電灯だって今無いんだし、危ないよ?」

確かに3人の懐中電灯は今カナエが持って行ってしまっているのだった。

「ヘーキよ、昼間歩いた時は一本道だったし……じゃ私1人で行ってくるね。ノゾミはここで待ってなよ」

そう言うとユカはノゾミを置いてどんどん山道へ入っていこうとした。

「あ〜、待ってよユカ〜」

ノゾミも暗闇に1人残されるのは嫌なのか、慌ててユカの後を追いかけた。

ふと、前を歩いていたユカの足がピタリと止まり、ノゾミはその背中にぶつかりそうになる。

「ど、どうしたのよ、ユカ?急に立ち止まったりして……」

ノゾミがユカの肩越しに前方の果てしない暗闇に目をやると、何者かが明かりも持たずに向こうから
近づいてくる気配がした。ユカが足を止めたのも、おそらくその気配を感じたせいだろう。
程なくしてその近づいてくる姿が徐々に暗闇の中から明らかになる。
両腕をダラリと下げ顔をうつむかせているものの、その服装は紛れもなくカナエのものだった。
それを確認してユカが声をかける。

「カナエったら、遅かったじゃない。それに懐中電灯はどうし……」

そこまで言いかけてユカの声がピタリと止まる。何かがおかしい。
それは持っていったはずの懐中電灯をなぜか持っていないことだけではなかった。
カナエの頭の位置が彼女の背丈に比べて地面からかなり高い位置にあるのだ。

「ね、ユカ、なんか音がしない?」

ノゾミの言葉に耳をすませてみると、ブブブブブ……という何かが振動する音が聞こえる。
その音はカナエが2人に近づいてくるにつれ段々と大きくなってきているように思えた。

「……カナエ?」

そう呼びかけたユカの声は微かに震えていた。
その声に気づいたのか、ようやくカナエがうつむいていた顔を上げた瞬間、ユカとノゾミは言葉を失った。
その瞳はガラス玉で出来ているかのように鈍い光を反射する琥珀色に染まっており、
そして何より額からは人間のものではない一対の「触角」が伸びていた。

「カ、カ、カ、カナエ……な、な、な、何なのよ、ソレ……」

震え声を増した声でカナエを指差しながらユカが問いかけるが、
カナエは魂の抜けたような表情のまま何も答えなかった。

いつの間にか全身を確認できる距離までカナエは2人に接近していた。
そこでようやくユカは先ほどの違和感と謎の振動音の正体をつかむことが出来た。

暗さとそれ自身の動きによって見えなかったが、カナエの背中で激しく動きながら音を立てているものがあった。
それは「翅」だった。その力によりカナエの体は地面から1mほど宙に浮いていたのだ。

カナエ――というよりもカナエの姿をしたそれは宙を滑るように2人に近づいてくる。
ノゾミはユカの肩にしがみつきながら後ろでブルブルと体を震わせていた。

両者の距離が徐々に詰まってくる。
「それ」が口と目を大きく開き、下げていた両手を挙げて2人に襲い掛かろうというポーズを見せた時、
ユカとノゾミはハモらせるように同時に悲鳴をあげていた。






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