(5)
「おぉーっとぉ〜、青コーナーから現れたのは「ハニー・マスク」なる謎のマスクウーマンだぁ〜ッ!」
「どんな闘い方を見せてくれるのか、私も興味津々であります」
「女王蜂」がリングに降り立った瞬間、彼女が顔の上半分を覆うマスクと奇怪な衣装を身につけていたにも関わらず
マコトだけにはその正体が誰なのかおおよその見当がついていた。
顔や体のライン、色違いのコスチュームデザイン、背後に伸びる長い黒髪、そして見覚えのある身のこなし、
そのすべてに彼女のかつての相棒「月島サナエ」らしき面影があった。
一番近くにいてサナエのことを見守っていたマコトだからこそ、それに気づいたのだった。
「あっと、挑戦者ハニー・マスク、相川に対して握手を求めています」
ふと、ハニーがマコトに向かって握手を求めるように右手を差し出した。
マスクから露出した唇も柔和な微笑みを表している。
「サナエ……」
マコトもそれにつられるようにして右手を差し出した。
が、その手が握り合わされることはなかった。
ハニーの右手は差し出されたマコトの手の横を通り過ぎると、そのまま平手打ちとなってマコトの頬を張ったのだ。
乾いたビンタの音がリング上に、いや会場の隅々にまで響き渡ったように思えた。
「……そうかい、それがアンタなりの「ただいま」ってわけかい……」
先ほどのビンタで口の中を切ったのだろう、マコトが血の混じった唾をマットの上に吐き捨てる。
「それじゃ、アタシも思いっきりやらせてもらうとするよ!」
慌てたレフリーに促されてようやくゴングが鳴ったのは、マコトの平手がハニーの頬を張ったのとほぼ同時だった。
最初のビンタ合戦に続き、リング上ではマコトとハニーががっぷり手4つに組み合っていた。
「へっ、最初は手4つから、っていう基本は変わっちゃいねぇな!受けて立つよ!」
力比べは僅差でマコトの方が押している。
ハニーの背中がマコトの力により後ろに反りかけた時だった。ハニーが口元をニヤリと歪め、マコトの向う脛を蹴り上げる。
奇襲によるその痛みに思わずマコトが膝をつき一瞬で形勢が逆転する。
「……やってくれるじゃねーか。でもよ、こちとら伊達にチャンピオンやってねーんだよ!」
膝をついた体勢から、マコトがハニーを巴投げで後ろに投げ飛ばす。
ハニーの体がリングに叩きつけられるが、彼女も上手く受け身を取ることでダメージを軽減する。
「両者、立ち上がって再びリング中央で睨みあう!最初に仕掛けたのは……ハニー・マスクの方だァッ!」
先に立ち上がったハニーがダッシュで間合いを詰めると、マコトに対して高速の貫手を繰り出すが、
マコトは寸でのところでその攻撃をかわすことに成功する。
とはいえ立ち上がり途中の不完全な体勢だったため、ハニーの指先が僅かにマコトの頬を掠める。
「痛っ!」
思わず痛みに頬を押さえるマコト。その掌には赤い血の筋が残っている。
ふと見ると次の貫手を繰り出そうと構えている、ハニーの真っ直ぐに伸ばされた指先が
会場内の照明を反射して煌いている。
ハッキリとは見えないが、おそらく極細の針のようなものをその指先に仕込んでいるのだろう。
そのような凶器の使用は「BWH」のファイター相手の試合では珍しいことではない。
現に先月のタッグ戦でもそうだったようにマコト自身幾度と無くそういう体験をしてきたが、
一度もそのことを抗議したことは無かった。
というよりも、抗議自体が無駄な行為だということを悟っていたというべきか。
今現在「レディース・ファイト」界を席巻している「BWH」の圧力と、何より観客がそういう血生臭いファイトを
求めていることにより、もはや「レディース・ファイト」のリング上での凶器の使用は黙認も同然だったのだ。
しかし、今のマコトはそのことにショックを隠しきれないでいた。
なぜなら、かつてそのような腐敗した風潮を覆そうと志をともにしたパートナーの面影を持つ相手が、
その志を違えたかのように平然と凶器攻撃を行ってきたのだから。
そんなマコトの動揺を無視するかのように、ハニーはまるでフェンシングのフルーレのごとく、次々と素早い貫手を放つ。
その指先は容赦なくマコトの顔を、目を狙って繰り出されている。
だが時折照明を反射して煌く指先の針をやすやすと食らうわけにはいかず、マコトも上半身を巧にスゥエーさせて
それらをかわしていく。
先ほどは体勢が不完全だったためにかすり傷とはいえヒットを許したが、
五分五分の状態で立ち会った時のマコトならその程度の攻撃を見切ることは容易いものだった。
(よし、次の攻撃を後ろに下がってかわして……)
直線の連撃の中、軌道を異にする横からの攻撃がくる気配を読んだマコトはリングを蹴って後ろに飛ぶ。
そして読みどおりサイドからの攻撃をかわして反撃に転じようとした。
だが―――
「あぁ〜ッとぉ!バックステップから反撃に出ようとした相川の腹に、ハニー・マスクの貫手がカウンターヒット〜〜〜〜!」
「今のは読まれていましたね〜、これは痛いですよ〜」
唾液と逆流してきた胃液をリングに吐き捨てながら、マコトの体が後ろにつんのめる。
ハニーはその隙にマコトに近づくと、その腕を取り遠心力を利用してロープに投げつける。
「ハニー・マスク、相川をロープへ振って……自分もまた逆側のロープへ走る。
反動をつけて……決まったァ〜〜〜リングの中央でドロップキック炸裂ゥ〜〜〜〜〜!」
「いや〜、鋭い蹴りですね〜。まさに「蜂の一刺し」と言ったところでしょうか」
解説の通り、突き刺さるような尖ったブーツの爪先をまともに胸部に食らったマコトの体が、
勢いよく後ろに突き飛ばされるようにダウンしてしまう。
「すかさず相川の体を引き起こし背後を取ります、ハニー・マスク。
そして関節技に移行、果たしてこれを抜け出せるか、女王・相川!?」
「バックステップから攻撃を仕掛ける時に右の肩が下がる癖、変わってませんね、マコトさん」
腕に力を込めながらハニーがマコトに囁きかける。
その聞き覚えのある声に、気を抜けばどこかへ行ってしまいそうだったマコトの意識が瞬時に反応する。
「サナエ……やっぱ……お前……サナエだったんだな!」
息も絶え絶えに、背後のハニーに呼びかけるマコト。
「いっ…たい……何があった……ってぇんだよ……?」
「私は……生まれ変わったんですよ」
「何ッ!?どう……いうことだ……!……く……うっ!」
「どうもこうも……こういうことですよ!」
言葉で説明する代わりとでも言うように、ハニーはマコトの間接を極めている腕にさらに力を込める。
それに合わせてマコトの筋肉と骨が軋む音をあげ、苦悶の表情が浮かぶ。
「肉を打つ音が……骨の軋む音が……そして何より痛みに呻くその声が……私を満たしてくれる。
私はそれに気づいたんです。それこそが……本当に私が望んでいたことだって」
なぜか間接を極めているはずのハニーの息がいつの間にか荒くなってきている。
ただし、それは疲労からくるものではなく、興奮に耐え切れなくなって思わず漏らしたもののようだった。
「そんな……サナエ……なんか……間違っ……てるぜ……」
「ええ……確かに間違ってました……以前の自分はね。今思うと、なんであんなことでウジウジ悩んでたんでしょうね……」
ハニーの呼吸と口調は今や完全に恍惚としたものに変わってきていた。
唇には、心の底から暴力を楽しみ暴力によって快感を得る、サディスティックな笑みが浮かんでいる。
「違…う……違うだろ、サナエ……本当の…お前は……そんなんじゃ……ねぇよ……!」
マコトが最後の力を振り絞って喚くように出した声も、もはやその耳には届いてないかのようにハニーは続ける。
「それに……私今とっても嬉しいんです。憧れのマコトさんとこうして勝負が出来るなんて……
この感動、お客さんにもわけてあげないといけませんよね?」
そう言うとハニーはマコトの左腕を掴んでいた自分の左手を、決して豊かとはいえないマコトの胸に当てておもむろに揉みしだいた。
「ふふ……マコトさんの胸、ちっちゃくってかわいい。でも……大きくなるように私が揉んであげますね……」
「なっ……!やめろ、サナエ!」
左腕の拘束は解かれたものの、まだ首と右腕を同時に極められたままのマコトは
ろくに抵抗することもできずハニーのなすがままにされている。
期せずして繰り広げられる2人の女性ファイターが絡み合う官能的な光景に、観客も実況席も息を呑んで釘付けになっていた。
「は……離せったら、サナエ……あっ……」
「そんなこと言って……ホントはずっとこうされたかったクセに……」
間接を極められて苦しむマコトの荒い息に、快感からくる熱い吐息が混じってくるのがわかると、
ハニーはマコトの首筋に息を吹きかけながら胸を揉む手の動きをいっそう激しくしていく。
と同時に右腕と首を極めている腕にも力を込めるのも忘れない。
「や……やめ……ろ……」
「……今、楽にしてあげますよ、マコトさん……」
「くっ!」
苦悶によるものなのか、それとも快感からくるものなのかわからない短い呻き声を最後に、マコトの体から抵抗する力が失われる。
それを確かめたハニーが絡めていた腕を緩めると、マコトの体は力なくリングに崩れ落ちた。
「あァ〜っとォ!ビーナス相川、ハニー・マスクの関節技の前にあえなく失神〜〜〜!
どうしてしまったんだ、チャンピオ〜〜〜ン!?」
今まで何度ダウンしようともそこから這い上がるように立ち上がってきたマコトだったが、
初めて見せる失神によるダウンに、試合を見に来ていた彼女のファンからは大きなどよめきが起こる。
それは、予想もしなかった挑戦者による大番狂わせにすっかり興奮した観客たちの声援とともに、会場内に大きなうねりを生み出していく。
「おっと、ハニー・マスク!ダウンした相川の脇腹を蹴って仰向けにすると、追い討ちを仕掛けるべくその体の上に馬乗りになったァ!」
「このまま終わってもいいけど……それじゃお客さんが納得しませんよね」
脇腹への蹴りで意識を取り戻そうとか細く呻くマコトの顔を見下ろしながらつぶやくと、ハニーは再び右手を貫手の形に構える。
もちろんその指先には、先ほどの極細針が煌いている。
「それに……私自身も満足してませんしね」
ハニーはそう呟きながら、貫手をマコトの鳩尾を狙って真っ直ぐ振り下ろす。
「うっ!」
針が突き刺さる痛みでマコトが目を覚ましたときには、ハニーはすでに立ち上がっていた。
マコトもそれを追いかけるようにすぐさま立ち上がろうとした。
「なっ……!体が……手足が、動かねェ……!」
天井の照明を背にして、ハニーが妖しく微笑みながら地べたに這いつくばるマコトを見下ろしていた。
「ちなみに今のは、ダメージを狙ったものではありません。
ほんの数十秒、手足の動きを麻痺させるツボを突かせてもらいました……」
そう言うとハニーはマコトに背を向けてコーナーへ悠然と歩いていく。
「でも数十秒あれば十分ですよね。ロープ最上段からの大技を決めるには……」
コーナーへと辿りついたハニーは、慣れた身のこなしでロープ最上段に登りつめる。
「ハニー・マスクがロープに登ったァ!果たしてここからどんな大技を見せつけてくれるのかッ!?
私も客席の皆さんも大興奮です!お聞き下さい、この会場を揺らす「ハニー・コール」をッ!」
今や客席の誰もが、トップロープの上で翅を広げるように両手を構えたハニーに声援を送っていた。
その声援と、彼女の体全体を輝かすように照らし出す照明により、彼女の恍惚もまたより高みへと登っていく。
そしてついに彼女の興奮が限界を超えた時―――
「跳んだァ〜〜〜〜〜!」
ハニーが翅を広げたポーズのまま爪先までをピンと伸ばした体勢で空中に弧を描き、一回転する。
そのままリング中央に転がっているマコトの体の上まで来ると、天井から投げ放たれた一本のナイフのように垂直に落下していった。
次の瞬間―――
「ぐああぁぁぁ―――――――ッ!」
その巨大なナイフはマコトの腹部を刺し貫き、一際大きな叫び声が響き渡る。
まるでリングの中央に立つ墓標のようなハニーの姿にそれを見ていた誰もが言葉を失い、
それまで大きな声援に包まれていた会場内が、一瞬しんと静まり返る。
「がはッ!」
静まり返った会場内に少し遅れて血反吐を吐く音が響き、血しぶきがハニーの太ももを汚すと、
火がついたように会場内が先ほどまで、いやそれ以上の大興奮の坩堝と化した。
その声援の中、ハニーはマコトの体の上からリングに降りる。
すぐにレフリーがマコトに駆け寄り何かを確かめていたが、間もなく諦めたように手をすくめて首を横に振る。
カンカンカンカ―――――ン!
レフリーのその仕草に促されるようにしてゴングがけたたましく鳴り響くと、観客の声援はより激しさを増した。
「決まったァ〜〜〜〜〜!挑戦者・ハニー・マスクの大技「ムーンサルト・ダガー」が女王の胸に深々と突き刺さったァ〜〜〜!
今ここに、新たなる女王の誕生だァ〜〜〜〜〜ッ!!」
リングの上でレフリーによって高々と腕を掲げられているハニーの表情は、
自室の鏡の前で自らの体を慰めて絶頂に達した時よりも、遥かに恍惚の笑みを浮かべていた。
「……ええ、今ちょうど見ていたところよ。あの娘、本当に嬉しそう……これもあなたの仕事のお陰よ、ドクター」
テレビの画面に大映しにされたハニー・マスクの―――いや月島サナエのアクメの表情を満足そうに見つめながら、
リサ・ブロンドは電話の相手と話していた。
「そうね……それで、また悪いんだけど今から1人分ベッドを開けておいてもらえるかしら?
相川マコト……彼女もそちらでお世話してもらうように手配しておくから……ウフフ」