日はすっかり落ち、辺りは月光に照らされ、ほんのりとした明かりに包まれている。
水を掻く音が聞こえる。幾つも、そして激しく。
25Mのプールは水面を荒らしている。
屋根に覆われているせいか、辺りは外よりも暗く、頼りになるのは上方にある窓から微かに注ぎ込む月明かりだけだった。
別に停電している訳ではない。ただ照明をつけるのが面倒臭かっただけ。それと……水面はさらに激しく波を立てる。
その波の勢力は一つのスタート台の袂に移動してきていた。
水は静かになる。
同時に先程まで荒れていた水の一帯から誰かがプールサイドへ上がってくる。
しなやかな手足、くびれたウェスト、ふくよかな胸……。競泳用の水着によって、その体はより美しく彩られている。上がってきたのは一人の女性だった。
彼女は新里夏帆という。国体、インターハイと高校生スイマーとして、記録会で自由形の部において数々の優勝を飾り、時には大会の新記録も叩き出すほどの実力を持っている、日本でもナンバー1のスイマーである。
しかし、それはつい先日までの話だ。
あの女性さえ目の前に現れなければ……。
夏帆はゴーグルとキャップを外す。湿って艶やかな黒髪がすっと肩に落ちる。
スタート台に掛けていたタオルを手に取り、顔や体を拭きながら、プールサイドに置かれた長椅子にゆっくりと腰を掛ける。
そのまま、じっとプールを見ていた。
静かな水面が広がっている。先程の荒々しさは消えていた。
夏帆は小さく食い縛ると、目を潤ませて、その顔を持っていたタオルの中に伏せた。
あの時のショックがまだ消えていない。
それは2ヶ月前の事。夏帆のいる、この高校で新人である1年生が本格的に大会に参戦する事になった。キャプテンであり、実力が飛び抜けている夏帆はそんなにその事を気にしていなかった。
しかし、一人の新人が夏帆に大きなプレッシャーを与えた。その新人はいきなり都の新人戦で大会新記録を叩き出した。さらに別の大会でも好記録を連発し続け、数々の優勝を手にした。いつしか夏帆は常に2番手に甘んじるようになり、世間の注目は一気にその新人に集められた。中学時代はそんなに実力が無かったにも関わらず、高校に入ってから一気に頭角を現した事で、マスコミからは『奇跡のマーメイド』と持て囃されるようになり、高校新記録更新も囁かれ始めている。
逆に中学の時から注がれていた目は途端に離れ、気がつけば単なる一般スイマーとしての扱いにまで落ちていた。栄光と賞賛に包まれていた快感を失い、夏帆の心にぽっかりと穴が空いていた。
負けたショックは水泳だけでなく、成績や周囲の人間関係にまで影響を及ぼし始めている。
このままでは全てを失う可能性まで出てきている。
負けたくない……。
それには、泳ぎ続けるしかない。
別に自分の力に奢っていた訳ではない。それなりに練習を重ねてきた。しかし、負けてしまった。だから、泳ぎ続け、更なる力をつける必要があった。
隙を見てはこのように高校の室内プールに忍び込み、誰もいないプールを泳ぐ。何回も、力強く、自分の気持ちが治まるまで泳いだ。
この高校は夜には警備員がいない、先生もいない、警報装置があるのは職員室とその周辺にしかない事も知っている。だから、夏帆は気兼ね無く、水泳に没頭出来た。
座ったまま、夏帆は顔をタオルで隠し続ける。
自然と涙が溢れてくる。自分の非力を悔やむ。
あと……、あの子さえいなければ……。
夏帆ははっとする。顔を上げると首を懸命に振り、愚かな考えを拭い去る。
やっぱり、実力が足りないのが問題なのだから……。
「上条香澄が憎いでしょう?」
夏帆以外、誰もいないはずの空間に突然、声が響く。
驚いたまま、夏帆はその場を立ち上がる。
しばらく辺りをきょろきょろと見回した後、彼女の視点は一箇所に止まった。
そこに影があった。ドアの横に誰かが凭れている。
表情や特徴は見えないが、影の形からこちらに顔を向けている事はわかった。
「……誰?」
夏帆の声は微かに怯えていた。
それに対する答えは返ってこない。
しかし、影は体を起こすとゆっくりと夏帆に近づいてくる。
思わず、夏帆は一歩身を後ろに引く。
「逃げないで。お話しましょう」
艶やかな声だった。
夏帆の心に一瞬、安堵を与えるが、何も状況が掴めない事もあり、彼女の緊張は緩まない。
影は夏帆の間近に迫っていた。
月明かりが影を照らす。そこには緑の髪を持った女性が立っている。鋭い目つきながらも穏やかに夏帆を見つめる。
「あなた、上条香澄が憎いでしょう? あなたから全てを奪い去った上条香澄が」
女性が言う通り、上条香澄はあの『奇跡のマーメイド』と呼ばれる後輩スイマーの名前に間違いない。
夏帆はその名前を聞いて、一気に不機嫌な顔つきに変わる。
「どっかの新聞社の方ですか? こんな所で取材なんか受けたくありません」
「取材なんかじゃないわ」
「じゃあ、誰ですか?」
「私はあなたを救いに来たの」
「えっ?」
夏帆は顔を顰める。
「私があなたに力を与えてあげる」
女性は口を綻ばせる。表情からしてとても冗談を言っている様子ではない。
夏帆はより奇妙な印象を持つ。
「何を言っているんですか?」
「私なら、あなたを再びトップスイマーに返り咲かせる力を持っているわ」
「冗談はやめてください」
夏帆はタオルを折り畳んで抱えると女性の横を通り抜ける。
だが、その動きは寸前で止まった。
違和感を覚えた。夏帆は感じた部分を見下ろす。そこには、自分の手首をしっかりと握る女性の手があった。
「何するんですか!」
夏帆は女性の手を振り払う。それに対し、女性は微笑みを浮かべたままだった。
「私は冗談を言っているつもりはないわ。本当に強くしてあげようって言っているのよ」
夏帆にとって、女性が何を口走っているのか、全く理解出来なかった。持っていたタオルを胸元で強く抱いたまま、怯えた表情で女性を見つめている。
……なぜか、逃げる事が出来なかった。
「私の科学の力を持ってすれば、あなたを完璧なスイマーに変える事が出来る」
“科学”という言葉に夏帆は不快感を覚える。
「薬ですか? そんな違反までして勝とうなんて思いません!」
「そうじゃないわ」
「じゃあ……」
言葉を続けようとした夏帆に女性は急激に互いの距離を近づける。
意外な行動に夏帆は思わず出そうとした言葉を飲み込んだ。
「細かい事は気にしないで。私があなたを強くしてあげる」
吸い込まれるような瞳だった。
そして、美しく、透き通った瞳だった。
もしかして、この人なら、私を強くしてくれるかも……。
少し身を委ねてみても……。
微かな思いが過ぎった瞬間、夏帆に本来の自我が戻ってくる。
いけない。こんな言葉に惑わされては。
目を強く瞑り、甘い言葉を脳内から払い除ける。
そして、再び女性に顔を向ける。意思を強く示した、睨むような顔をしている。
「やっぱりお断りします。自分の力で何とかしてみせます」
夏帆は振り返り、プールを後にしようとする。
「上条香澄に勝ちたくないの?」
夏帆の足は止まった。
確かに勝ちたい気持ちはある。後輩なんかに奪われる事が無い、ずっと頂点にいるための力が欲しい。これ以上、惨めな気持ちに晒されたくはない。
でも……
「騙されたと思って、私に賭けてみない? 決して損はさせないわ」
続け様に投げ掛けられる女性の言葉に、夏帆は静かに振り返る。
女性は微笑んでいた。その笑顔に夏帆の心は大きく揺れ動かされている。
その間に女性は再び夏帆の元へ歩み寄る。
「ねぇ、どう?」
女性は畳み掛ける。
「……話だけはお伺いしましょう」
夏帆の表情にはまだ迷いがあった。
こんな事を言ってしまって良かったのだろうか……。
心の中に懐疑心が渦巻いている。
「そう。じゃあ、決まりね」
「それであなたの科学の力で私をどのように強くしてくれるのですか?」
「簡単な話よ。私があなたの体を改造するの。S.S.B.の戦士として」
「えっ?」
突然、夏帆の意識が薄れ出した。
「あ……」
歯止めが掛からず、夏帆は意識を失うとその場に倒れこんだ。
その様子を女性は妖艶な笑みで見つめている。手にはスプレー缶を持っている。吹き出し口は夏帆に向けられていた。
「あっ、そうだ。私の名前、教えてなかったわね。私はS.S.B.の科学者、エイミー
って言うの」
「うっ……」
夏帆の口から息が漏れた。徐に目を開ける。
ここは……?
意識が覚醒すると同時にここまでの経緯が一気に頭の中に流れ込む。
夏帆は勢いよく顔を上げる。
そこは暗い部屋だった。周囲には機械が並び、その真ん中でぽつんと夏帆だけが椅子に座らされている。しかも衣類を何も身につけていなかった。空気の流れや温度が直に感覚に訴えかけてくる。
「気がついた?」
聞き覚えのある声がした。夏帆は咄嗟に顔を向ける。
そこには先程の女性 プロフェッサー・エイミーが立っていた。コート姿とは違い、黒いマントに包まれた姿をしていた。ロングヘアも一点で括られ、ポニーテールにしている。
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