(2)
「失礼します」

サナエはそう言うと、包帯で吊った右腕を庇いながら左手でコミッショナー室のドアを閉めた。

「サナエ……」

ドアに手を掛けたままため息をつくサナエに、声をかける者があった。

「マコトさん……」

声の主は先日のタッグ戦をともに闘った相川マコトだった。
マコトは廊下の壁に寄りかかるようにして包帯を巻いた両腕を組んで立っている。
サナエを見つめるその瞳は、リングの上に立つ時同様真剣そのものだ。

「サナエ……お前、ウチ辞めちまうのか?」

「そうです。この前の試合でもマコトさんに迷惑かけちゃいましたしね。あの時は本当にすみませんでした」

淡々とした口調で形ばかりの謝罪の言葉を述べながら、マコトの横を通りすぎていくサナエ。
マコトがその吊ってない方の肩に手を掛け彼女を引き止める。

「待てよ……。本気……なのかよ……?」

「離してくだ……」

マコトから視線を反らしながら肩にかけられた手を振り払おうとしたサナエの頬を、マコトの平手が打つ音がした。
その衝撃に思わず倒れそうになるが、ぐっと我慢して耐えたサナエは左手で打たれた頬を押さえる。

「バッキャロー!1回負けたくらいで尻尾巻いて諦めちまうんじゃねーよ!」

「でも……ベルトを取られたのは、私の責任ですから……」

「違うだろ!アタシが言ってんのはそんなことじゃねーんだよ!
大体、ベルトなんていつだって取り戻しゃいいんだよ!」

マコトはそう言いながらサナエの両肩に手をかけて語りかける。

「昔のお前は……「グラップル・ミューズ」に入ってきた頃の月島サナエはそんなんじゃなかったろ!
練習で100回投げ飛ばされても、101回立ち向かってくる……その根性をアタシは評価してたんだぜ!
あの時言ってたじゃねーか、「目標はマコトさんです」って!あの頃のお前はどこにいっちまったんだよ!」

両肩にかけられたマコトの手が、サナエの体を激しくゆさぶる。

「マコトさんに何がわかるって言うんですか!」

それまで目を反らしながら無言で肩を揺さぶられていたサナエだったが、突如激昂した声を上げて反論する。

「……私の夢は……私の本当にやりたいことは、今の「レディース・ファイト」にはどうしても見出せないんです!」

「だったら……だったらこれからテメェの手で変えていきゃあイイじゃねぇかよ!」

「でも……でも、この腕でどうしろって言うんですか!」

口論を続けていた2人だったが、最後の涙混じりになったサナエの言葉にマコトが凍りつく。

「そ、そんなに……悪いのか?」

マコトはあの試合の後の、腕の太さの倍以上にも赤黒く腫れ上がっていたサナエの右肘を思い出していた。

「……全治3ヶ月……だそうです。しかも、治ったとしても……右腕の握力は殆ど戻らないだろう、って……」

サナエの沈痛な面持ちの告白に、マコトはもはや言葉を失うしかなかったが、それでも必死に言葉を探して続けた。
しかしそれはマコトが言うまでもなく、サナエ自身が口にするのも辛い事実だった。

「じゃあ……」

「ええ、いい機会ですからこれでファイターを辞めようと思うんです……
握力が殆ど無いんじゃ、関節技はもちろんパンチの威力もロクに出せませんからね……」

そう自嘲気味に言うと、サナエはマコトに背を向ける。

「本当に、マコトさんにはお世話になりっぱなしでしたね。ありがとうございました……」

そして首だけマコトに向けて軽く頭を下げたのを最後に、一切後ろを振り返ることなく
エレベーターに向かって廊下を歩いていく。

「サナエ……」

エレベーターに乗り込み、一瞬振り返ったサナエにマコトは何か言いたげな表情と仕草を見せたが、
それもすぐに閉まりゆくエレベーターの扉に遮られてしまった。



いまだ痺れにも似た痛みが引かない頬をさすりながら、サナエは声を殺してエレベーターの中で泣いた。
それはただ痛みだけから流れ落ちる涙ではなかった。



階下に到着したエレベーターから出てきたサナエを待っていたのは、意外な人物だった。
それに気づいたサナエは慌てて涙を拭う。

「こんにちは、アルテミス月島さん―――いえ、今は月島サナエさんとお呼びすべきかしら。
こうして1対1でお目にかかるのは初めてね」

黒系のスーツを着こなし、それと同じ色のサングラスをかけた金髪の女性
――ヒール団体「BWH」のプロモーター兼マネージャー、リサ・ブロンドだった。
サナエたちの団体「グラップル・ミューズ」との対抗戦の渦中、何度か各種メディアやリング周辺で見かけたことはあったが、
彼女の言うとおりこうして直接会うのは初めてだった。

「ここで立ち話もなんだし、お茶でも飲みながらゆっくりお話しません?」

サングラスを外しながらビル近くの喫茶店を指差すと、リサは真意を隠すように笑みを浮かべてそう言った。



「それで……「BWH」のプロモーターさんが、わざわざ対抗相手のビルまで赴いて何の用ですか?」

運ばれてきたコーヒーをブラックのまま口にしながら、サナエは尋ねた。

「単刀直入に言うわ……アナタ、うちに来ない?」

身を乗り出してそう言ったリサの言葉に、サナエは危うく口にしていたコーヒーを吹きそうなくらい驚いた。

「本気ですか……?」

「ええ、本気も本気よ。アナタにはうちの方がお似合いだわ」

一瞬、わずかにサナエの顔に嫌悪が浮かぶ。
勝利のため、そしてレディース・ファイトの観客が最も好む残虐非道な血みどろなファイトのため、
試合中の手段はもちろん、自らの肉体さえもすすんで悪魔に差し出す
――先日サナエたちと対戦した、キャット・ザ・リッパーの指に仕込まれた鉄製の爪や、
ポーラ・ベアーの特殊な筋肉増強剤を利用した鋼の肉体などはその一例である――
そんな「BWH(Beast Women from
Hell)」のやり方こそ、サナエが現在の迷いの心境に至る一因だったのだ。

「何を根拠に……正直言ってあなたたちのやり方は気に入りませんから……それに……」

口ごもりながらコーヒーのカップを叩きつけるようにテーブルに置いて立ち上がろうとするサナエを、
リサは何とかしてなだめる様に引き止める。

「まぁまぁ、もちろん断られるとは思ってたわ……でも、アナタに会いにきた目的はもう1つあるの」

「何……ですか?」

再び席につこうとするサナエの、包帯に包まれた右腕を指しながらリサは続ける。

「その怪我、うちのファイターのせいでしょ……御免なさいね」

「いえ、これは私の未熟さのせいですから……」

恨み言の一つもぶつけたい気分をこらえながら、サナエは一応の社交辞令を口にする。

「アハッ、噂に聞いたとおりの真面目っぷりね」

人を食ったようなリサの態度に、サナエはいっそう嫌悪感を露にする。

「あら、怒らせちゃったら御免なさいね……でも、さっきの様子からするとその怪我、かなりの重傷のようね……」

「ええ、全治3ヶ月。しかもファイターとしての復帰は絶望的だそうですよ」

もはや諦めきった口調で他人事のように、椅子に背を預けながらサナエは言い放った。

「そう……それは本当に御免なさいね。この通り、うちの団体を代表して謝らせてもらうわ」

そう言うとリサは上半身を机に突っ伏して頭を下げた。
その意外な態度に、サナエは思わず呆気に取られてしまった。

「それでね」

リサが顔を上げる。

「形だけの謝罪だけではなんですから、責任をもってうちの方であなたのサポートをさせていただこうと思いまして……」

そう言うとリサはスーツの内ポケットから手帳を取り出し、挟んでいた一枚の名刺をサナエに差し出した。

「こちらの病院へ行ってごらんなさい。ここのドクターは、今まで何人ものスポーツ選手の怪我を治してきたお方なの。
現にうちのファイターたちもよくお世話になってるわ」

手渡された名刺には「服部クリニック」の名前と住所・電話番号が書き添えられていた。

「その病院で私の名前を出してくだされば、治療費などの一切はこちらで負担させていただくわ」

しかし、あまりにも上手い話にサナエは疑いの眼差しでリサの顔を見つめてしまう。

「あら、そんな怖い顔しないでちょうだい。もちろん完治したらその代償にうちに入れ、なんてことは言わないわよ」

笑顔を保ったままリサは言ったが、それでも相変わらずサナエの疑念は晴れないままでいた。

「とりあえず、その怪我では普通の生活もままならないでしょうし、騙されたと思って行ってみなさい。
あ、一応ここの勘定も奢らせてもらうわね」

そう言うとリサは勘定書を持って立ち上がり、レジの方へ歩いていった。
サナエはコーヒーの冷めるのも気に留めず、店の外へ消えていくリサの姿と、手にした名刺とを交互に見つめていた。





――数日後

サナエは手渡された名刺にあった「服部クリニック」を訪れることになる。






それが巧妙に仕組まれた罠だとは気づかないまま―――





「月島さーん」

看護婦に名前を呼ばれ、サナエは診察室のカーテンの中へと向かう。
そこには汚れ一つ無い白衣を着た、まだ歳若そうな医師が座っていた。

「え……と、月島さん、でしたっけ?……え、月島?」

サナエの顔を見て突然目を丸くしたその若い医師は、かけている眼鏡を何度も直しながら慌てて机の上のカルテを見直す。

「月島……サナエさん……ですよね?あの「グラップル・ミューズ」の……アルテミス月島さん?」

「えっ?……ハ……ハイ……そうです……けど……」

眼鏡の奥の瞳を輝かせ少し興奮気味な医師の態度に圧されながら、サナエはたどたどしく返事をする。
その途端彼は、診察室の外にまで響くような歓喜の声を上げた。

「うわーっ!本物のアルテミスさんだー!」

その声に、廊下にいたナースが飛んできて医師に向かい唇に指を当てて「お静かに」のサインを取ると、
彼はすぐにシュンとなり罰が悪そうに頭をかきながら、サナエに対して頭を下げた。

「あ……ごめんなさい。実は僕、以前からアルテミスさんのファンだったんですよ。
職業柄今までたくさんのファイターたちを診てきたけど、こうして憧れのアルテミスさんに会えるとは
夢にも思ってなかったもんですから……嬉しくて、つい……」

「あ、いえ……こういうこと多いですから、もう慣れてますし……」

サナエが、医師の見かけによらぬ子供っぽい態度に微笑みながらそう言うと、
医師は下げていた頭を上げ、机上の蛍光板に掲げていたレントゲン写真を見て言った。

「それで……アルテミス……いや月島さん……非常に申し上げにくいことなんですが……」

「ええ、わかってます……前の病院でも言われましたから……全治3ヶ月、でしょう?それに……」

医師が何かを告げる前に沈んだ表情でサナエが言うと、医師は彼女に向き直る。

「ええ……普通の医者なら、ね」

「え?」

不思議と自信に満ちたその医師の言葉に、サナエはふと顔を上げる。

「僕なら1ヶ月で治しましょう……それから完治後の握力の方も保証しますよ」

「え……そ、それ……本当ですか!?」

それまで暗い影を帯びていたサナエの顔が、一瞬にして明るさを取り戻す。

「本当ですとも、このドクター服部に全てお任せください!」

服部と名乗った若い医師は、あまり立派とはいえない胸を突き出すと拳でドンと叩いた。
しかしその勢いがあまりにも強すぎたのか、服部は胸を詰まらせてむせてしまう。
その仕草が可笑しくてサナエの顔からつい笑みがこぼれる。

やがて平静さを取り戻し眼鏡のズレを直しながら、服部はサナエに改めて向き直ると人差し指を立てて言った。

「それで月島さん……治療にあたって1つ約束していただきたいことがあるんですが……」

先ほどまでのひょうきんな態度とは打って変わって眼鏡の奥に浮かぶ真剣さを感じ取り
サナエは思わずゴクリと生唾を飲んで頷く。

「それはですね……」

そこまで言うと、服部は真剣な表情を崩しさっきと同じ柔和な微笑を浮かべる。
そして椅子から身を乗り出して、その笑顔をよりいっそうサナエに近づけて言う。

「僕のことを全面的に信頼して欲しい、ということなんですよ」

その時、サナエの心臓が一際大きな鼓動の音を立てたが、その音が聞こえたのはサナエ自身だけだった。

「信頼……ですか?」

「そうです。医者が患者さんの体を治すのは当然のことですが、
医者と患者さんの間に信頼関係があるのとないのでは、術後の経過に大きな差が現れるという報告が
最近の研究にありましてね。
それを聞いて以来、担当する患者さんとはよりよい信頼関係を築いていきたい、というのが僕の持論なんですよ。
それで僕は治療にあたって患者の皆さんにこうやって約束していただいてるんです」

そこまで言うと服部は再び椅子にかけなおす。
服部の顔が離れてなおサナエの心臓は高鳴ったままで、心なしか顔が火照ってきている気がした。

そんなサナエを見ながら服部は黙って小指を立てた左手を差し出す。
サナエはとっさにその意味が分からなかったが、
服部の微笑みに誘われるように同じく自分の左手の小指を彼のそれに絡ませる。

「ゆーびきーりげーんまーん♪……っと」

2つの小指が絡み合うと、服部がその手を振りながら節をつけて歌い出す。

「とりあえずすぐにでも手術に取り掛かりたいので、今日か明日にでも入院の手続きを取ってください。
詳しくは受付の方で…………それから……が必要なんで…………」

指を離し入院と手術の手続きについて説明する服部の声を、サナエは熱に浮かされたような
うわの空の気分で聞いていた。


back  next