(3)
「月島さーん、これから麻酔をかけますから」

サナエは今手術用のベッドの上に寝かされていた。
彼女の頭の上の方から、手術着を纏った服部が声を掛けてくる。

「何か楽しいことでも考えてリラックスしててください」

サナエは両頬に当てられた服部の手の暖かさを感じながら、戸惑っていた。

「楽しい……ことですか?そう言っても私……実は小さい頃からトレーニング三昧で……
友達とかともほとんど遊びに行ったことないから、楽しいことなんて考えたこともなかったな……」

「そうですね、それじゃ……手術が終わって怪我が治ったらああしたい、こうしたいとか思うことはありませんか?」

「うーん、とりあえずファイター辞めて普通の女の子として生きてみたい、ってトコかな……?」

「えっ、ファイター辞めちゃうんですか!?残念だなぁ……」

服部が唇を突き出し心底残念そうな表情をしたのを見て、サナエはにっこり微笑む。

「冗談よ……でも、しばらく静養するにしても……その間だけでも、普通の女の子に戻れたらな……」

「そうですか……じゃあ退院したら僕と……デートなんてどうですか?」

服部の唐突なデートの申し出に、鳩が豆鉄砲を食らったような表情をしたサナエの顔がみるみる紅潮していく。
そんなサナエを見て服部は、真顔から一転普段の人懐っこい笑顔に戻る。

「ハハハ……僕の方も冗談ですよ。こんなこと言っちゃったらリラックスどころじゃなくなりますね。
それじゃそろそろ麻酔をかけますね。楽しいことでも考えながら、天井のライトを見ていてください……」

「本当に冗談かしら?」そう言おうとした口に吸気マスクが当てられ、サナエは仕方なく言われたとおりに
天井のライトを見つめる。気のせいか、この麻酔室に入ってきた時とは微妙にその明るさが違っているように思えた。

そんなことを考えているうちに、口に当てられたマスクから甘い花の匂いのする麻酔ガスが漂ってくる。
同時に服部がサナエの頬に添えた手をゆっくりとさすり始める。
麻酔ガスの効用と、服部の手から伝わってくる心地よさで、天井の明かりとサナエを見下ろしている
服部の顔が段々とぼやけていく。

「……き……ま……ーん…………つ……しま……ーん」

ぼやけた視界と意識にかかる靄の向こう側から声が聞こえる。
サナエは辛うじてそれが服部の声であることを認識していた。

「つきしまさーん、僕の声が聞こえますか〜?聞こえたら返事をしてくださーい」

「……はい……」

消え入りそうな声で、サナエは返事をする。

「僕との「約束」は覚えてくれてますか?」

「やく……そく……?」

「そうです。最初に『僕のことを信頼する』という約束を僕としましたよね。「指切り」までして」

服部は相変わらずサナエの頬を優しく撫でている。

「覚えてますよね?」

「……はい……私は……服部……せんせいを……しんらい……しています……」

麻酔で意識が朦朧としているせいであろう、たどたどしくも一言ずつ言葉を紡いでいく。

「そうです。では……」

服部は、サナエの頬を撫でる両手の動きをいっそうゆっくりと、そしてねっとりとした動きに変えていく。

「これから先は『僕の言うことには何でも従ってください』。当然、手術が終わった後も同じですよ」

「……は……い……」

「では、月島さん自身の言葉で仰ってください」

「わ……たしは…………はっとり……せんせい……の……いう……ことに……な……んでも……した……がい
 ……ます……」

先ほどにも増して途切れ途切れの言葉で誓い終えると、サナエの意識は暗闇の向こうへと落ちていった。
服部は麻酔がサナエの全身に行き渡ったことを確認すると、力を失っている彼女の左手を持ち上げ
その小指に自らの小指を絡ませながら、にこやかだがどこか冷酷さを湛えた微笑を浮かべるのだった。

「よく言えました。これも僕と月島さんとの「約束」ですからね……」





「カウンセリング……ですか?」

手術から数日後、回診にやってきた服部の言葉をサナエはオウム返しに口にした。

「そうです。まぁこれはリハビリなんかと並行してやっていくわけなんですが……
退院までの入院生活というのも結構退屈なもので、意外と患者さんのストレスになるようでしてね」

服部はカルテに何かを書き込みながら、ベッドの上のサナエに説明していく。

「例えば、本当に自分の症状は完治したのか、とか退院後の生活は上手くやっていけるのだろうか、とか
皆さん大なり小なりの不安を抱えてらっしゃるようで。
そこで、僕のモットーでもある「患者さんとの信頼関係」を保つ意味でも、
僕自ら皆さんの心のケアの方も担当させてもらってるんですよ」

サナエは服部の顔を見る。いつもの人懐っこい笑顔だ。

「それで、月島さんにもさっそく明日から僕のカウンセリングを受けていただきたいと思いましてね」

「はぁ……でも、私にはそんな、悩みなんて……」

サナエが気の無い返事をしようとした時だった。
服部は小指を立てた左手をサナエの前にそっと差し出した。

「?」

一瞬その仕草を疑問に思ったサナエだったが、無言でウインクをしている服部につられるようにして
自らの小指をそれに絡める。
その瞬間サナエの頭の中に、ある「約束」がよみがえる。

(わたしは……はっとり……せんせいの……いうことに……なんでも……したがう……)

そしてその「約束」は、逆らいがたい強制力を伴ってサナエの心を絡めとっていく。

(私は、服部先生の言うことに何でも従う……)

「受けてくれますね?」

小指を絡めたまま笑顔で服部が尋ねる。
それは、普段の彼の言葉とは思えない背筋を貫くような冷たさを含んだ言い方だった。

「……ハイ……」

いつの間にかサナエはカウンセリングを受けることを了承していた。

「それじゃ明日のリハビリの時間の後にでも、カウンセリング室に来て下さい。わかりましたね」

服部はいつもの口調に戻ってそう言うと、絡めていた指を離しサナエの病室を後にした。





次の日のリハビリ後、サナエはナースの案内でカウンセリング室のプレートが掲げられた部屋に来ていた。

「ようこそ、月島さん」

極力照明を抑えたやや薄暗いその部屋の中で、服部がベッドの前の椅子に腰掛けて待っていた。

「とりあえず、この上へ横になってください」

言われるままにサナエが横たわると、服部はその頭の方へと移動する。

「それじゃ、リラックスしてくださいね」

そう言いながら手にしていたリモコンを操作すると、部屋の中に心地よい香りが漂い始める。
おそらくリラックス効果を高めるアロマなのだろう。

と、同時に服部は、手術前の麻酔室の時と同じようにサナエの両頬に手をあてがう。
そしてその手をゆっくり動かしながら、サナエの耳に優しく囁いていく。

「さぁ、どんどん気持ちよくなっていきますよ……そして体の方は眠ってしまいますが、意識の方は覚醒したままです。
そこでは何も服を着てないのと同じように、本当の自分をさらけ出す事ができます」

「本当の……自分……」

ゆっくりと瞼が閉じていくのと同時に、サナエの手足が弛緩し力を失っていく。

「さぁ、月島さん……今、あなたは本当の自分をさらけ出しています。いわば自分の本心に正直な状態です。
僕の質問に、何でも正直に答えてください」

「……ハイ……」

全身と同じように緩みきった唇が答える。

「月島さん……あなたは以前『ファイターを辞めたい』と仰いましたね。それは本当ですか?」

「……ハイ……「レディース・ファイト」のリングに戻るのは……もう嫌なんです……」

「それは何故ですか?」

「今の「レディース・ファイト」は……私の望んだファイトとは……違う気がするんです……
人々の目を引くための派手な衣装や演出……無駄に煽るようにやたらと盛り上げるだけのラフファイトや流血……
私はただ……純粋に闘いたいだけなのに……とにかくもう……あのリングには戻りたくはありません」

「そうですか……では、ファイターを辞めた後、どうやって生きていくつもりなんですか?」

「え……?」

その言葉とともに服部が手の動きを止めると、サナエの体がピクリと無意識に反応する。

「ファイターを辞めることで、本当にあなたの心は満たされるんですか?」

「…………?」

「ファイトから離れたら、闘うことで得られていた快感はもう得られませんよ?」

「闘うことで……得られる快感?」

「そうです。あなたは闘いの中で確かに快感を得ていたはずです。
それが「レディース・ファイト」のリングに上がる前でも、そしてそこで闘うようになった後でも……」

「ち……違います……私、闘うことで快感なんて……」

サナエは服部の言葉を否定するように首を横に振ろうとしたが、添えられた服部の両手がそれを制止する。

「違うんですか?先ほどあなたは仰ったじゃないですか。「私はただ純粋に闘いたいだけ」と」

「…………?」

「じゃぁあなたの言う「純粋な闘い」とは何ですか?」

「そ、それは……」

「元々「純粋な」闘いというものは存在しないのです。古来より人々は何かを得るために闘いを繰り返してきました。
食料……土地……地位……名誉……時には自分の強さそのものを誇るために闘う者さえ現れました。
それは自ら闘う代わりにそれを眺める者にとっても同じことで、
例えば古代ローマのパンクラチオンなどは元々は貴族の享楽として始まったといいます。
つまり人々は欲望を満たす手段としてその心のどこかで常に「闘い」を求めているものなのです」

「………………」

「それは月島さん、あなたも例外ではありません。あなたは頭では「レディース・ファイト」のやり方を否定しながらも、
本当は自分も思いっきりリング上で暴れてみたいと思ったことがあるはずだ……」

「私が……暴れてみたい……」

その時服部は白衣のポケットから赤い液体の入った小瓶を取り出し、その蓋を片手で器用に開けるとそれをサナエの鼻先へと近づける。
中の赤い液体から微かな刺激臭がし、その匂いにサナエの顔が僅かに歪む。
それを確認すると服部は、小瓶をまた白衣のポケットに素早く戻した。

「そうです。しかしリングの上でのあなたは否定する気持ちの方が強いせいで、知らず知らずのうちに
自分を偽っていたのです。
そうやって自分を偽っていたせいで、あなたの実力はセーブされ勝ちを失ってきたはずです。
そして勝てない不満がさらにあなたの迷いに拍車をかけていった……違いますか?」

「ち……違う!……私は……私は……!」

サナエの声は徐々に激しさを増し、いつの間にか閉じた瞼には涙が滲んできている。
その様子を見ながら、服部は再びサナエの頬を優しく撫で始める。
それはまるで子供をあやす親の仕草のように。

「大丈夫です。今のあなたが本当のあなたです。今の気持ちに正直になってください……」

頬を撫でられながらそう言われたサナエの体が、全身を巡る血液の流れが活発になり始めたかのように
熱を帯び始める。

「あ……熱い……体が……何だか熱っぽく……」

「そうです……それこそがあなたの中で「闘いを求める」気持ちがだんだん高ぶってきた証拠ですよ。
さぁ、もっと自分に正直になりましょう。本当の自分を解放してあげるんです」

「ほん……とうの……じぶ……ん……んンッ」

熱に浮かされているせいか、サナエの言葉にあえぎ声が混ざり徐々に途切れ途切れになっていく。

「いきなりこれ以上は無理かな……」

服部はサナエに聞こえないように小さな声でポツリとつぶやく。

「とりあえず今日はここまでにしましょう……一度にやってしまうのも精神によくないですからね。
それでは私が手を叩くと、あなたの体の熱は鎮まった状態で目覚めます。いいですか……」

手を叩く乾いた音が室内に響くと、サナエの手足が力を取り戻す。
そして瞼がゆっくりと開かれていくが、その中の瞳は先ほどの涙で潤ったままだ。

「それじゃ明日も同じ時間にここへ来てくださいね……」

「……ハイ……」

ゆっくり答えるサナエの、額に滲んだ汗をそっと拭ってから彼女を立たせると、
フラフラした覚束ない足取りでカウンセリング室を出ていくその姿をいつもの笑顔で見送った。



不意に室内備え付けの電話が鳴る。
その受話器を取った服部は馴れた手つきで外線に切り替える。

「ああ……はい……わかりました……そういうことでしたら、またそちらに「アレ」送るようにしますよ。
……ええ、そうです。たった今さっき彼女にも「アレ」を試したとこです。
……あなたの見込んだ通りでしたよ、彼女なかなか「素質」アリですね。
……はい……はい……お任せください……では、また」



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