ハマダラカ女
ニシガハチ様 作
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次の日の朝――――――

息を切らしながら慌てて職員室に駆け込んできた真木村泉美は、辺りを見回して胸を撫で下ろすとともに妙な違和感を感じ取る。
彼女はその正体を探りあてるように、自分の腕時計と壁に掛けられた時計とを交互に見つめる。

―――おかしい

再び無人の職員室を見回した後、泉美は首を傾げる。
2つの時計が指し示す時刻は、始業時刻を10分ほど回っていた。
いつもなら園児たちが通園してくる前に行われる、朝礼がとっくに始まっている時間だったが室内には人っ子一人いない。

「おはようございます、泉美先生」

人一倍怖がり屋で小心者の泉美が心細くなりかけたところへ不意に掛けられる朝の挨拶。
その声に泉美は、背後から突然冷や水を掛けられたようにその身を強張らせた。

「お、おはようございます、美奈子先生」

動揺を隠せないまま泉美が挨拶を返した人物、それは泉美よりも一年先輩の同僚・安和木美奈子である。

「あ、あの、美奈子先生……他の先生方は……?」

泉美は当然の疑問を美奈子に投げかけたが、その答えは返ってこなかった。





「昨夜はごめんなさい」

「えっ?」

何の心当たりもないのに突然謝られても、泉美はただただ困惑するしかなかった。

「昨日一晩で先生方全員のとこ回るつもりだったんですけど、ついついあちこちでつまみ食いしちゃったせいで時間が足りなくなっちゃったんです」

朝の職員室が空っぽなわけも、美奈子の言葉の真意も全く解せぬまま、泉美の頭の中で疑問符だけがグルグルと渦を巻いていた。

「泉美先生だけ仲間外れにしちゃうのも可哀想だし、それに……」

美奈子がそこまで言った時、職員室の扉が音を立てて開き、今日も暑くなりそうな予感がする朝の空気が部屋の中へ流れ込んでくる。

「おはようございます」

挨拶とともに入ってきたのは2人と同じ保母の道上綾乃であった。

「おはようございます、綾乃先生」

「お、おはよう……ございます」

挨拶を返した泉美だったが、綾乃の様子が昨日までと違うような気がしてその声はか細く途切れていった。
普段は低血圧でローギアのエンジンのようなテンションの低さの綾乃が、今朝は最初からいつもの調子で現れたのだ。
美奈子はそんな綾乃の、耳元に直接言葉を注ぎ込むかと思わせる距離まで音もなく近づいて言った。

「綾乃先生……昨夜は彼氏とお楽しみだったかしら?」

「えっ?美奈子先生、なんでそのことを……」

保育園の職員室に不釣合いな日常会話の切り出し方に、質問をされた綾乃はもちろん、2人の会話が耳に入ってきた泉美までも目を丸くした。

しかし他人の会話に聞き耳を立てていたなどという少々はしたない行為を取り繕うかのように、とりあえず泉美は一日の仕事の用意を始めることにした。
そんな泉美に構うことなく、美奈子は言葉を続ける。

「……どう?彼の血は美味しかった?」

「な、何を言って……」

綾乃のそこから先の言葉は、泉美の耳には入ってこなかった。
というよりは、それに勝る大きな、そして彼女の神経を逆なでする雑音が聞こえてきたせいである。

(……蚊?それにしては……なんだか音が……?)

昨夜も灯りを落とし寝ようとした直前に聞こえてきて泉美を不快にさせたその音は、今まさに彼女の耳元で聞こえるかのような、
―――いや、彼女も感じているようにそれはやけに大きな音を立てている。

「あ、あのー……」

不快音の正体について、2人の同僚の見解を求めるべく彼女たちの方を振り返った泉美は、
そこにかつて彼女が見たことのない奇怪で恐ろしいものを見てしまうことになった。



「あら、見られちゃったわね。泉美先生ったら怖がりだから、せめて気づかれないうちに後ろからブッスリといってあげるつもりだったのに」

露になった褐色の肌に黒い斑紋を浮かび上がらせた美奈子は、くすくすと少女のように笑いながら言った。

「み、み、みな、みな、みな、みなこせんせ……」

すっかり腰を抜かして床にへたり込んでしまった泉美の、歯の根の合わない口許は先ほどまでそこにいたはずの同僚の名を最後まではっきりと口にすることができなかった。
彼女が先刻まで耳にしていた騒音の正体はその怪人の背中から生えた2枚の羽の振動によるものだったのだが、
異形の者を目の前にした恐怖に囚われてしまっている今の泉美にはそんなことを考える余裕などなかった。

そんな泉美の目に飛び込んできたのは、怪人の傍らに立つ綾乃の姿。

「あ、綾乃先生……に、に、逃げて……」

それはとうてい本人の耳に届きそうもないほどか細い声だったが、そのことを考慮しても綾乃はすぐ側に立っている怪人から距離を置くどころか、
恐怖に身体を震わせる素振りすら見せていない。
その表情はいたって普通―――というよりは恐怖をはじめとする一切の感情を抜かれてしまったかのように、無表情でただそこに突っ立っていた。

「綾乃……もう一度聞くわね。彼の血は美味しかったかしら?」

何を言っているの?―――自分に問われたわけではなかったが、泉美がハマダラ蚊女の質問の意味を図りかねていると、
それまで凍り付いていたかのように瞬き一つ見せなかった綾乃が、ゆっくりと口を開いた。

「……ハイ、ハマダラ蚊女さま……大変美味しゅうございました……」

その声は極めて淡々と、彼女の表情と同じく何の感情も込められていない。

「そう……それはよかった。それじゃ、もう一つ聞くわ、綾乃。今のあなたは何者かしら?」

ハマダラ蚊女は満足したような笑みを浮かべながら、今度は和泉の方へ向き直り彼女を指差して綾乃に問いかけた。

「そこの泉美先生にも聞こえるように説明してあげなさい……彼女も仲間にしてあげるんだから」

「ハイ……ハマダラ蚊女さま。私はハマダラ蚊女様の僕……ハマダラ蚊女さまのため、そして偉大なる我らが主のため……
人間どもの血を集めるためにこの身を捧げる者です」

先ほどと同じく感情はまったくこもっていない調子で、言葉をつむいでいく綾乃。
自らの言葉に陶酔するかのように、その顔が段々と上気した笑みを浮かべていく。

泉美はそんな綾乃の言葉の意味をまったく理解できなかった。
―――というよりは、理解することが目の前のこの現実を受け入れてしまうことに繋がると感じ取り、本能的にそれを避けようとしていた。
むしろ、これは夢の続きだ。自分はまだ自宅のベッドの上でまどろみの中にいるのだ、自らにそう言い聞かせるように頭の中で叫び続ける。

だが―――受け入れがたい状況が、どう足掻こうとも現実であることが揺るがない以上の悲劇はない。

「……そういうことなの、泉美先生。あなたもすぐに彼女達の仲間……私の下僕にしてあげるわね」

ハマダラ蚊女が、その右手の人差し指を立てながら泉美の方へゆっくりと歩み寄ってくる。
立てられた人差し指は一瞬にして床まで届くかのように細く長く伸びていき、窓から差し込んできた夏の日差しを受けてギラリと輝いた。

獲物を前にした狩人の笑みを浮かべながら近づいてくるハマダラ蚊女と、その狩人に追い詰められた小動物のように怯える泉美。
徐々に詰まる2人の距離。
ハマダラ蚊女が泉美のところへ至るまでの短い時間だけが、そのまま自分に与えられた人生の残り時間であることを本能で感じ取った泉美は
僅かでもその時間を延ばそうと床に尻餅をついたまま少しづつじりじりと後ずさっていく。

「ふふふふ……」

ハマダラ蚊女が長く伸びた人差し指の先を、紫に染まった唇の間から延ばした同じ色の舌でペロリと舐め挙げる。
彼女が吸血行為を行う際に注入する麻酔液と同じ成分が、その唾液には含まれている。
それは注入する量に比べればごく僅かなもので、いわば吸血行為の前の儀式―――ハマダラ蚊女にしてみれば食前のマナーのようなものにすぎなかったが
泉美の恐怖心をさらに煽るには十分な仕草であった。

「ひ、ひぃ」

だが、煽られたことがきっかけで、泉美の脳はようやく彼女の身体にその場から早急に逃げ出すように指令を下し、
それを受けた身体は自らを絡め取っていた恐怖の鎖を引きちぎって、弾かれるように立ち上がる。
一瞬立ちくらみのようにふらつきながらも、泉美の足は職員室の入り口へ向かって歩き出していた。

ハマダラ蚊女は、そんな泉美の様子を勝算を秘めた笑顔で見つめたまま、彼女のあとを追おうとはしない。
それは、獲物を追い詰めた者だけが持つ絶対的余裕の態度であった。

ドンッ

「キャッ」

ようやくにして入り口まで辿りついた泉美だったが、不意に現れ―――少なくともハマダラ蚊女とは逆に余裕の欠片もなかった泉美にはそう思えた―――
彼女の行く手を遮るものに衝突して、小さな叫びとともに泉美は再び床にへたり込んでしまった。

そして見上げた視線の先には―――

「……せ、先生方……」

それは彼女の同僚であるこの保育園の保母数名であった。

「た、助けてください!み、美奈子先生が……美奈子先生が!」

泉美はこの場の状況を上手く説明できる言葉を持ち合わせてはいなかったが、ただ必死に彼女達に向かって助けを求める。
だが、そんな泉美の懇願にも彼女達は眉一つ動かす様子もなく、ただ虚空を見つめてその場に立っている。

彼女達の様子に泉美は思い当たる節があった。
それは―――さっき見た綾乃の姿。
その2つが瞬時に結びつき、そして同時に、泉美の中に生まれかけた希望の「蜘蛛の糸」をぷつりと断ち切ってしまう。

「ま、ま、まさか…………」

そこから先はもはやまともな言葉にはならなかった。

「あら、あなたたち。朝の食事は終わったかしら?」

「……ハイ、ハマダラ蚊女さま……」

それまで棒のように突っ立ったままだった保母達が、ハマダラ蚊女の問いに口を揃えて答える。
そして、先頭に立っていた保母が引きずるようにその手に持っていたものを放り投げる。

「ヒャッ……!」

乾いた音ともに床に投げ出されたそれを見ているうちに、それが人間の、しかもすべての体液を抜かれてしまったかのように干物と化した死体であることを理解し、
泉美は怯えた声を上げてその場から僅かに飛び退いた。
よく見るとそれは、やはり同僚であるこの保育園の保父のようである。

そしてまた1人、突っ立っていた別の保母がミイラ化した人間の死体を放り投げる。
今度は、この保育園でも一番年長の保母のものである。

「……そうね。食べた後はちゃぁんとお片づけしないとね。綾乃……あなたもきちんと片付けてきたかしら?」

「ハイ……ハマダラ蚊女さま……」

まるで園児達に言うかのように囁くハマダラ蚊女と、相変わらず抑揚のない声で答える綾乃たち。
彼女達とミイラと化した死体に囲まれながら、泉美の精神は限界を迎えようとしていた。

ハマダラ蚊女はそんな泉美に再び近づきながら、努めて優しい口調で語りかける。

「そんなに怖がらないでくださいよ、泉美先生。あなたを殺したりはしないわ……」

「え……」

「私の麻酔兼怪人化液は男性とある一定の年齢以上の女性には効果がなくってね。だから残念だけど彼らには「エサ」になってもらったの。
 その点、泉美先生なら大丈夫ですよ……」

いきなり泉美の目線が高い位置に引き上げられる。
入り口に立っていた保母達が泉美の両脇に手を回して彼女を立ち上がらせたのだった。
彼女達は同時に、泉美の身体をがっちりと締め上げその自由を奪う。

「い、い、い、いやぁ―――助けてぇ――――――っ!!」

泉美は声を限りに泣き叫んだが、その望みを聞き入れてくれる者はこの場には皆無だった。
次の瞬間には、ハマダラ蚊女の指が変化した針管が音もなく泉美の首筋に突き立てられていた。

「あぅ……」

ハマダラ蚊女がその指を変化さえた針を突き立てられた泉美に、瞬く間に変化が現れる。
肌には汗が滲み始め、身体は小刻みに震え始める。

(な……何これ…………か、体が痺れて……あ、頭の中も……あ、あ、あ、あ、あぁ…………)

全身に広がる痺れのせいで、もはや両腕を掴まれている感覚すらなくなってきていたが、
その痺れは泉美の頭にまでやってくると、彼女の内面をも侵していく。

次いで見慣れた職員室の景色が、目の前に立つ奇怪な格好をした美奈子の姿が、壊れたテレビのようにぐにゃりと歪み始めると、
それらはごちゃ混ぜになって回転し始める。

それは高熱に浮かされながら寒気を覚えるという、本来なら不快というカテゴリに分類される感覚に近いものだったが、
泉美の頭の隅では気持ち悪さどころか、それとは全く逆方向の感覚が頭をもたげてきていた。

―――気持ち悪いのに、気持ちいい

矛盾した感覚の濁流に泉美の意識はなす術もなく飲み込まれていく。

「あ……あ……あぅ…………」

泉美の開ききった口からはまともな言葉の代わりに涎の筋が垂れ落ち、
口と同じくらい見開かれた瞳はとっくに焦点を失い白目すら剥き始めていた。
ハマダラ蚊女は泉美の肌から針を抜き下僕達に目配せをすると、彼女達の緩められた腕の間から
支えを失った泉美の身体は膝から床に崩れ落ちる。



「あ……はぁ…………」

床に崩れ落ちてなお、泉美の身体は微弱電流を流されているかのように時折ビクンという小刻みな震えを見せていた。



ブブブブ……、ブブブブ……

ハマダラ蚊女が背中の羽を震わせはじめると、それに呼応するようにすっかり弛緩しきった様子で床に横たわっていた泉美の身体がピクリと痙攣する。

「……さぁ、目覚めなさい。泉美……新たなる我が下僕よ」

ハマダラ蚊女の言葉が繰る見えない糸に引っ張られるかのように、泉美は両腕をついて上半身を起こす。
ゆっくりと開かれた瞼の下から現れた瞳は、澱みを湛えた沼のように深く、そして冥い色をしていた。
針を刺されたところが赤く腫れあがるとともに、ハマダラ蚊女の下僕の証である彼女の紋章が浮かび上がっている。

(ふぅ……時間がないとはいえ、早めに蚊女化を進行させるために特別に濃縮した液を注入したから、失敗しちゃうかと思ったけど
さすがはエイミー様ね。ぬかりはないわ)

「さて……これで準備は万端。あとは作戦を実行に移すだけ……」

自らの手で下僕と化した綾乃・泉美をはじめとする保母達を見回して、ハマダラ蚊女はつぶやいた。

「しっかり働いてくださいね……『先生方』」

「ハイ、ハマダラ蚊女さま。すべてはSSBのために!」

一糸乱れぬ下僕達の宣誓の声を聞きながらハマダラ蚊女が身体の前で両腕を交差させると、
その姿は元の―――今となってはもう世を忍ぶ仮の姿ではあるが―――安和木美奈子のものに戻っていく。

と、同時に保母たちの瞳に意思の光が再び宿り、彼女達の肌の上に浮かび上がっていたハマダラ蚊女の紋章もすっと消える。
自分が今まで何をしていたのか思い出せないように小首を傾げる者もあったが、美奈子が手を叩くと一斉に彼女の方へ視線を移す。

「先生方、そろそろ子供達が来る時間ですよ。お迎えに行きましょうか」

そんな美奈子の声に促されるように、保母たちは雑談など交わしながら職員室から出ていくのだが、
これから自分達が恐ろしい作戦の手駒として働かされることを自覚している者は一人としていない。

そんな彼女達の背中を見つめながら、美奈子―――ハマダラ蚊女は作戦の成功を確信したかのように密かに舌なめずりをするのだった。



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