「昨夜はごめんなさい」
「えっ?」
何の心当たりもないのに突然謝られても、泉美はただただ困惑するしかなかった。
「昨日一晩で先生方全員のとこ回るつもりだったんですけど、ついついあちこちでつまみ食いしちゃったせいで時間が足りなくなっちゃったんです」
朝の職員室が空っぽなわけも、美奈子の言葉の真意も全く解せぬまま、泉美の頭の中で疑問符だけがグルグルと渦を巻いていた。
「泉美先生だけ仲間外れにしちゃうのも可哀想だし、それに……」
美奈子がそこまで言った時、職員室の扉が音を立てて開き、今日も暑くなりそうな予感がする朝の空気が部屋の中へ流れ込んでくる。
「おはようございます」
挨拶とともに入ってきたのは2人と同じ保母の道上綾乃であった。
「おはようございます、綾乃先生」
「お、おはよう……ございます」
挨拶を返した泉美だったが、綾乃の様子が昨日までと違うような気がしてその声はか細く途切れていった。
普段は低血圧でローギアのエンジンのようなテンションの低さの綾乃が、今朝は最初からいつもの調子で現れたのだ。
美奈子はそんな綾乃の、耳元に直接言葉を注ぎ込むかと思わせる距離まで音もなく近づいて言った。
「綾乃先生……昨夜は彼氏とお楽しみだったかしら?」
「えっ?美奈子先生、なんでそのことを……」
保育園の職員室に不釣合いな日常会話の切り出し方に、質問をされた綾乃はもちろん、2人の会話が耳に入ってきた泉美までも目を丸くした。
しかし他人の会話に聞き耳を立てていたなどという少々はしたない行為を取り繕うかのように、とりあえず泉美は一日の仕事の用意を始めることにした。
そんな泉美に構うことなく、美奈子は言葉を続ける。
「……どう?彼の血は美味しかった?」
「な、何を言って……」
綾乃のそこから先の言葉は、泉美の耳には入ってこなかった。
というよりは、それに勝る大きな、そして彼女の神経を逆なでする雑音が聞こえてきたせいである。
(……蚊?それにしては……なんだか音が……?)
昨夜も灯りを落とし寝ようとした直前に聞こえてきて泉美を不快にさせたその音は、今まさに彼女の耳元で聞こえるかのような、
―――いや、彼女も感じているようにそれはやけに大きな音を立てている。
「あ、あのー……」
不快音の正体について、2人の同僚の見解を求めるべく彼女たちの方を振り返った泉美は、
そこにかつて彼女が見たことのない奇怪で恐ろしいものを見てしまうことになった。 |